初出
「闇黒日記」平成十八年九月五日
公開
2006-09-10

「ARIA The NATURAL」の御説教

1

先づは引用から。

現實的な會話にではなく、會話のことばの内在律に眞實性を見ようとしたあなたがたは、戲曲がせりふによつて――いや、せりふのみによつて――つくられてゐることを自覺した最初のひとたちではあつたけれども、そのためことばによつて規正しえない人間の世界にまで深いりしようとはしなかつた。ぼくはかならずしも無意識の世界を描けといふのではありません。たゞ申しあげたいのは、人間といふものはときに身分不相應なことばを吐くものだといふことであります。そしてそのことばのためにおもひかけない結果をもちきたらすものであります。人間はことばを發するだけではなく、ことばが人間をうごかすことがあります。せりふの藝術としての自律性は――いひかへれば、それが日常生活の會話と異るゆえんは――さういふ能動性をもつてゐるかいなかにかゝつてゐるのです。せりふが洗錬されてゐるかどうか、その人物の心理のぎりぎりな表現であるかどうかは、むしろ第二義的な問題であります。

2

アニメーションだからと言つて御芝居・演劇と違はなければならないものであるとは思はない。映畫と演劇とでは慥かに「編緝」が出來るか出來ないかの違ひは「ある」。TVで觀るドラマと映畫館で觀る映畫、劇場で觀る演劇、慥かに違ひは「ある」。が、一方で、臺詞劇としてそれらが成立し得るものである事は慥かである。俺が不滿に思ふのは、さう云ふ臺詞劇が日本では兔に角徹底的に排除されてゐる事實である。「アニメなのだから」「ドラマなのだから」「演劇なのだから」――「映像の藝術」である事が殊更に強調され、臺詞はただの邪魔ものとして扱はれてゐる。「拙い臺詞」があつた時、「臺詞に頼るのが行けない」=「映像で語れ」と云ふ常識的な通り一遍の批判で濟まされる事が日本では極めて多い。

臺詞が契機となり、其處から行動が引出され、その行動から再び臺詞が生れる――さう云ふ臺詞劇は、小説であつてもあり得るものだが、日本では忌むべきものと看做されてゐる。

けれども、なぜまたそんなに映像だけに拘るのか。實のところ「拙い臺詞」は多くの場合、映像を重視し過ぎた結果として生ずるものである。臺詞を閑却した附けが常に「拙い臺詞」となつて現れる。藝術作品としての映像作品の中に、豫め少しでも臺詞の居場所を確保しようとしてゐさへすれば、臺詞はきちんと效果を發揮して映像とともに作品を成立させる要素たり得るのだが、それを制作者が排除しようとして、最初から邪險にしてゐれば、當然のやうに臺詞は作品に復讐する。日本の多くの映像作家がその邊の事を解つてゐない。

もつとも、映像作家が臺詞を邪險にするのも理由がなくはない――と云ふのは、映像藝術を成立させ得るだけの巧い臺詞を書けるライターが、日本には存在しないからである。あにめの脚本家でも、巧いのはギャグ許り――或は「取敢ず恰好良い臺詞」を書いて、ど派手な映像と組合せれば、視聽者には強い印象が殘るだらう、と、その程度の認識でシナリオを書いてゐる人が多過ぎる。しやれた臺詞を書けばそれで十分なのか。さうではない。ところがシナリオライターにその邊の事が解つてゐない。

とは言へ、適當な臺詞でも受容れてしまふ日本の視聽者にも、責任の一端は「ある」。橋田壽賀子の下らない御喋りが延々繰返される脚本が持囃される。非道いものだ。「説明的な臺詞」、慥かにそれは惡い臺詞だ、だが、だからと言つて「臺詞なんかに頼らないで、映像で語れ」――そんな風で良いのか。臺詞が行動を呼び、行動が臺詞を必然的に要請する、さう云ふ本當のドラマが、映像作品として成立して、何で惡いのだらう。「面倒」と云ふのが映像作家達の本音なのではないか。

役者が、「目立ちたい」許りに、物語としての必然性を無視して、座附作者に舞臺の上で見榮えがするだけの脚本を要求した事は、歌舞伎以來の演劇の惡き傳統である。今、映像作家もまた役者の冒した過ちを繰返してゐるのではないか。彼らは目立ちたい、自分だけの映像を見せびらかしたい。彼等にとつて、臺詞は映像を提示する際のきつかけに過ぎない――臺詞は無ければ無いに越した事はない、そんなものである。が、それでは映像藝術は現代的な藝術たり得ない。パントマイムを否定する訣ではないけれども、今の映像藝術はパントマイムを理想と考へ、それだけを追求しようとしてしまつてゐるのではないか。けれども、「臺詞に頼らない」事に「成功」した映像作品が、時として子供つぽく、幼稚なものに成下がつてゐるのは、屡々「ある」事である。それに「説明的な臺詞」がくつ附けば、稚拙さは更に強調されるだけである。

映像作家は臺詞を排除しようとするのではなく、寧ろ積極的に臺詞と協調する事を考へた方が良くないか。映像作家と脚本家が、互ひに相手を利用しようとして、ぎくしやくした關係に陷つてしまつてゐるのが、現在の映像藝術において映像と臺詞のバランスを缺く原因となつてゐるのではないか。映像作家は臺詞を蔑視し、脚本家は映像作家に劣等感を抱くのを止めよ。

3

ARIAにおける臺詞の説教臭さ――それは屡々指摘されてゐる事だ。けれども、問題は、さう云ふ御説教の臺詞で納得する登場人物と、その納得する樣子を眺めてゐる視聽者との間に「馴れ合ひ」が存在する事だ。

晃が藍華に「御前はアリシアにはなれない」と力強く説教する。藍華が泣きながら納得する。「あゝいい話だな」「良い最終囘だつた」と視聽者が納得して「今夜は良く寢られさうだ」と言つて床に就く。なるほど晃さんが力強く説教するのは、如何にも晃さんらしい行動だ。けれども、晃の説教に藍華が納得しなければならない物語上の必然的な理由はない。藍華の「納得」を支へてゐるのは、ただの「世間的な常識」――と言ふより、ただの「現代的な通念」でしかない。大體そんな事を言つておけば今の日本人は納得する――「自分らしく」。

しかし、さう云ふ「常識」いや「通念」を殊さら強調し、改めて述べるのが藝術でありアニメーションであるのだとしたら、我々は何と詰らないものを喜んで觀てゐるのだらうか、と云ふ事になる――いや實際、詰らないのだ。我々は説教されて喜んでゐるに過ぎない。が、それでは何故、説教を藝術作品の形に仕立て上げなければならないのか。イギリスではシェイクスピア以前、教會がキリストの教へを傳へる爲に御芝居を演じたと云ふ。我々はシェイクスピア以前の御芝居を觀てゐるやうなものではないか。教會の御芝居は、シェイクスピアの御芝居に「進化した」筈である。

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