イポリット・テーヌ

著作

藝術哲學

『藝術哲學』東京堂版
廣瀬哲士譯。寫眞は昭和二十一年十一月二十日六版。初版は昭和十二年十月一日。元版は大正十五年、大村書店から刊行された。

近代フランスの起源 舊制度

『近代フランスの起源 舊制度』齋藤書店版
岡田眞吉譯。辰野隆が第一卷に序文を書いてゐる。第二卷は、古本屋で買つた時、既にカヴァが無かつた。もともとはあつた筈。

文化と風土

『文化と風土』
丸山誠治譯。改造文庫第一部第百三十五篇。

諸君がゴハリゴハリとした新聞紙型大の大型のペーヂを捲つて行かれる頃、つまり例へば詩書とか法典とか聖典とかの寫本の飴色に變色した紙葉を捲つて行かれる頃、まづ最初に頭に浮んで來るものは何であらうか。それは、その種の典籍が決して只それだけのものとして獨立して存在してゐるのではないと云ふことである。それらの典籍は、地中から發掘した貝殻の化石と同樣に一つの型に過ぎず、嘗つて生存と消滅を遂げた動物が石の中に殘した形と同樣に一つの痕跡に過ぎない。貝殻の裏には動物が居たのであり、記録の裏には人間が居たのである。動物を想像するためにでないとしたら、どうして諸君は貝殻を研究されるであらうか。同樣に、人間を認識するためにこそ、諸君は記録を研究されるのである。貝殻や記録は死んだ骸であつて、生きて完い存在への手掛りとしてのみ價値がある。我々はこの存在を把握し、それを、も一度組み立て上げるべく努力しなければならない。記録を研究するのに、それが他から獨立したものでゞもあるかのやうに扱ふのは誤つてゐる。さうするのは單なる物知りとして諸事物を取扱ふことであり、机上の空中樓閣がその最後の落ちである。究竟の所、神話があるのでも、言語があるのでもなくて只、自らの五臓六腑の欲求及び精神の生れ付きの性癖に從つて言葉や活象(イマージュ)を排列する人間があるだけである。學説自身は何でもない。諸君は學説を爲した人逹を、例へば十七世紀の人の或る姿を、或る大司教又は或る英人殉教者の四角張つた精力的な顏を見給へ。個人としてゞなければ何物も存在しない。我々が認識しなければならないのは個人自身である。學説の血筋、詩の分類、憲法の進歩、方言の變形等を明かにしたとしても、それだけでは未だ我々は地上を掃き清めたに過ぎない。生き、動き、色々の情欲を授り、七癖を背負ひ込み、聲音と人相を持ち、姿態(シナ)と着物を持ち、今の今街で別れて來た友人のやうに特異で而も完全な人間を、時間の隔たりを越えて、歴史家が發見し始めた時にのみ、眞の歴史が打ち建てられるのである。だとして見れば、自らの目で人間を觀察するのに邪魔になる時間的障壁を、出來得る限り、心眼によつて除去すべく努力しなければならないではないか。……。

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