パスカル

人物

1623〜1662年。若い頃は數學や物理學の領域で業績を擧げてをり、近代科學の黎明期に於る重要な人物と看做されてゐる。のちにポール・ロワイヤル修道院に屬し、(當時の聖職者の道徳の紊れを批判し、特にイエズス會を攻撃した事で知られる)ジャンセニズムの強力な擁護者となつた。死後、着衣の襟に縫ひ込まれてゐたメモが發見され、宗教的な神秘體驗が重大な轉記を齎した事が判つた。

近代的な論理的思考をなしうる知性を持ちながら、一方でキリスト教神學の根幹に關る思辨的な著作も遺したパスカルの思想は、のちの實存主義にも強い影響を與へたが、理性主義とキリスト教との間で搖れ動くヨーロッパ――のみならず西歐の近代を受容れた現代社會にとつて、極めて示唆的な内容を含んでゐる。

パスカル傳 及び 論集
竹村清譯。
傳記の部分は、ジルベルト・パスカル(ペリエ夫人)の筆になるもの。小論は七篇、收録されてゐる。

著作

パンセ(瞑想録)

パスカルの殘したメモの集成。パスカルは晩年、キリスト教擁護の爲の著作を作る積りだつた。それを果せないうちに死んだものの、斷片、下書き、メモの類を大量に殘した。それらを纏めて『パンセ』と呼ぶ書物が作られた。

私はデカルトを容赦することができない。彼はその凡ての哲學の中で、出來ることなら神なしに濟ませたいと思つたでもあらう。だが、彼は、世界を運行させるために、神にひとはじきさせないわけにはゆかなかつた。それから先は、彼は神と何の關りも持たないのである。

パンセ 瞑想録
由木康譯。白水社。
パスカル『人間批評』
津田穣譯。アテナ書院。パンセからの拔粹。「附加 ポール=ロワイヤル修道院について」なる解説が收録されてゐる。

論集・その他

『パンセ』以外の著作。

パスカル書簡集
由木康・松浪信三郎譯。
パスカル小品集
由木康譯。
エピクテートスとモンテーニュとに關するパスカルとサシとの對話
前田陽一譯。哲學叢書。
人間の榮光と悲慘とに關する有名な對話篇が「サシとの對話」で、それ程長くないものでもあるし、内容がとても明確でわかりやすいので、一度讀んでおくと良い。
「モンテーニュを誤讀してゐる」と云ふ指摘もあるが、パスカルの意圖は、「人間を信じ過ぎてもいけないし、全く信じないのも良くない」と云ふ考へ方を示す事で、エピクテートスとモンテーニュを批評する事ではなかつたから問題ない。エピクテートスとモンテーニュは、パスカルの議論における批評の對象でない。人間禮讚の傾向と人間否定の傾向とを、それぞれエピクテートスとモンテーニュとで代表させたのである。
パスカルは、觀察對象を歪める觀察の誤である事、公正に人間を見る必要のある事を信じてゐた。パスカルは、科學者であり、科學的精神を持つてゐた。同時にパスカルが、キリスト教を心から信じてゐた事は、彼の科學的精神と何の矛盾も無い。パスカルは、キリスト教の人間觀が正當なものである事を信じてゐた。日本人がパスカルに完全に同意し、キリスト教を信ずる必要はない。しかし、パスカルのした「極端な人間觀に對する批判」について、日本人は反省する必要がある。
幾何學的精神
森有正譯。哲學叢書。
パスカルが、論理の基本的な基準について述べたもの。パスカルの言ふ基準は、ギリシャ人が幾何學と云ふ學問を樹てるのに用ゐた方法と同じであり、題名もそれに由來する。
安本美典氏が『マスコミ的邪馬台国論への疑問』所收の「邪馬台国探究の論理」で、パスカルの論理の基準については、埼玉大学の吉田洋一氏、立教大学の赤摂也氏共著の『数学序説』(培風館)に要領よくまとめられていると述べ、それに基づいて要旨を解り易く箇條書きにして呉れてゐるので、引用する。

パスカルは、まず定義についての三つの規則をあげている。

  1. それよりもはっきりした用語がないくらい明らかなものは、それを定義しようとしないこと。
  2. いくぶんでも、不明もしくはあいまいなところのある用語は、定義しないままにしておかないこと。
  3. 用語を定義するに際しては、完全に知られているか、または、すでに説明されている言葉のみを用いること。

また、公理について、二つの規則をあげている。

  1. 必要な原理は、それがいかに明晰で明証的であっても、けっして承認されるか否かを吟味しないままに残さないこと。
  2. それ自身で、完全に明証的なことがらのみを公理として要請すること。

さらに、論証について、三つの規則をあげている。

  1. それを証明するために、より明晰なものをさがしても無駄なほど、それだけで明証的なことがらは、これを論証しようとしないこと。
  2. すこしでも不明なところのある命題は、これをことごとく証明すること。そして、その証明にあたっては、きわめて明証的な公理、または、すでに承認せられたか、あるいは証明された命題のみを用いること。
  3. 定義によって限定された用語のあいまいさによって誤らないために、つねに心の中に定義された名辞の代わりに、定義をおきかえてみること。

パスカルの方法をまとめれば、自明のものをのぞくすべての「言葉」を「定義」し、また、自明でないすべての「命題」を「証明」しつくすということになるのであろう。

ただし、パスカルの「公理主義」は、原初的なもので、その「公理」は「それ自身で完全に明証的なことがら」で「万人に承認される明晰なことがら」である。それに對して、現代の「公理主義」では、必ずしも「万人に承認される」ものではない「公理」即ち「假定」を前提にした議論の仕方が、議論の方法として認められてゐる。現代的な「公理主義」は、ヒルベルトに據つて數學の基礎として提唱され、カールナプ等に據つて一般的な自然科學の方法とされるやうになつた。

最近においては、ノーウィッド・R・ハンスンが、仮説提起の論理的形式を、つぎのような形でまとめている。

  1. 観測された諸現象P1、P2、P3、……がある。
  2. もし、仮説Hを真とすれば、その帰結として、諸現象P1、P2、P3、……が説明される。
  3. それゆえ、仮説Hを真としてみる理由がある。
田舎の友への手紙
森有正譯。白水社。
パスカル最晩年の論爭書簡。全十八篇だが未完の第十九篇がある。「田舎の友」に宛てた手紙に假託して、イエズス會・ドミニコ會によるジャンセニスト攻撃に反論したものである(但し、第十一篇以降ははつきりイエズス會の神父宛になつてゐる)。
ジャンセニズム論爭は――と言ふより、當時のイエズス會やドミニコ會によるジャンセニストへの攻撃は、現在ウェブで行はれてゐる非難・攻撃の類に屡々見られる如く、大變に不毛なものであつた。これに對してパスカルは、ジャンセニズムを擁護する論陣を張り、不毛の不毛たる所以を剔抉した。パスカルの神學に關する知識・理解については幾つかの缺陷が指摘されるものの、議論の進め方には一貫性があり、パスカルの數少い著作の中でも重要なものと看做されてゐる。神學的な問題それ自體については、キリスト教社會でない日本に於て大して意味を持つものでないが、パスカルが指摘した或種の「議論の仕方」の問題は、現代の不毛な議論・不毛な人身攻撃について示唆的で、學ぶべきところがあると思はれる。
現代の不毛な議論を追跡するのが苦痛であるやうに、此のパスカルの著作も氣樂に讀み通せるものではない。斜め讀みすれば容易に論旨を見失ふもので、精讀が要求されるが、今の日本人に神學に對する關心のある筈がないから、多くの人が端から見向きもしないであらう事は想像出來る。ところが、テーマとしての神學とは別に、パスカルが「議論のすすめ方に對する疑問」を呈してゐるところで我々現代人もまた極めて多くの興味深い指摘を見出す事が出來るのである。對立すべき二陣營が更に別の氣に入らない陣營を數で壓倒する爲に、用語の意味を曖昧にしたまゝ、表面的な語彙の一致だけで二陣營が連係する事は、極めて卑劣であるが、さうした事態が生じれば一見論理的にすすめられてゐる論爭も單なる勝利を目して爭はれる鬪爭に過ぎない事になる。かうした不毛な論爭を避けるべき事をパスカルは主張し、勿論それは攻撃された一陣營を擁護する爲のものであるが、攻撃側には不利になる主張であるから受容れられない。が、さうした力による當座の壓倒をパスカルは無意味であるとし、眞理は神に愛されるもので永遠である事を説いてゐる。斯うした部分は、キリスト教社會である西歐に於て當座受容れられなかつた主張であるが、キリスト教社會でない日本に於ては永遠に受容れられない可能性の高い主張である。が、少くともパスカルの言説は現代に至るまで高く評價されてゐるのであり、この種の主張を評價するだけの力が西歐には「ある」。斯うした評價のあり方は、日本人にとつて參考になるものであると考へるが如何だらうか。正當な議論の仕方を主張する人間を「中二病」のやうに言つて侮辱し、隠謀をめぐらし徒黨を組んで氣に入らない相手を壓倒する事を「大人の態度」と稱して賞賛する惡き傳統を持つ日本人にとつて、パスカルを偉大な思想家として評價する西歐の文化は、果して受容可能か。
パスカルの『田舎の友への手紙』のうち何通かは、十七回も書き直されている。今ではもうなんの興味も惹かなくなった作品に、パスカルがそれほどの情熱と時間を注ぎこむことができたとは、ただ唖然とせざるをえない。論争は時代とともに亡びる。人間相手の論争はすべてそうだ。――シオラン『生誕の災厄』

參考・エピクテトス

精神の自由について
養徳叢書外國篇1033。
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