シャルル・ボードレール

人物

1821年〜1867年。象徴派の詩人。批評家。

ボオドレエルの生涯
セシェとベルトオの共著。齋藤磯雄譯。傳記。

評價

一般に「美」の觀點から語られる事の多い詩人であるが、一方、その退嬰的とも見られる美的世界の背後に、キリスト教的世界觀の存在する事、即ち、極めて道徳的な價値觀の存する事が屡々指摘されてゐる。罪や快樂を禮讚し、裏返しの形で表現してはゐるが、ボードレールには新しい時代である近代に相應しい顛倒した價値觀の創造こそが必要であるとの信念があつた。

西歐に於ては、キリスト教に支配された中世、人間の價値を再認識した近世を經て、アンチキリストの思想が確立された現代と云ふ時代が出現してゐる。注意しなければならない事は、キリスト教的徳目から離れながらも、依然として西歐人はキリスト教的價値判斷の方法から――或は、キリスト教的價値判斷の枠組から――逃れ得ないでゐると云ふ事だ。

西歐人の一人であるボードレールは、「新たな價値觀」としての「美」を示したとされる。しかし彼の「美」は、既存の徳目を否定する形をとりながら、依然として道徳的――或はキリスト教的――である。既存の道徳の枠組に對する挑戦であるボードレールの詩は、道徳の排除の形を取りながら、既存の道徳の概念が詩人の意識を極めて強力に支配してゐる事を示唆する。日本人的な花鳥風月の美と云ふものと、ボードレールの言ふ美とを、我々は混同しがちだが、意識して區別する努力をすべきだらう。

また、ストイシズムに據りながら、ボードレールはストイシズムの限界を心得てゐた。其處にボードレールが再びカトリックに囘歸する契機があつたと言ふ事が出來る。辰野隆が『ボオドレエル研究序説』でボードレールのダンディズムと宗教性を論じてゐる。

加藤周一

類推と想像力によつて、無縁である筈のものを結び附け、二つのイメージを重ねて飛躍的な或種のイメージを喚起する技法、個別のものから全宇宙を想起せしめる技法、詩人の精神の小宇宙を世界と云ふ大宇宙と照應させる象徴主義の技法は、ボードレールの「宇宙的對比」と呼ばれるものであるが、その論理は、カトリック自然神學の「本質類比(アナロギア・エンチス)」の論理と同じである、と加藤周一が指摘してゐる。(『象徴主義的風土』)中村真一郎『文学的感覚』十九〜二十ページを見よ。

ランソン

辰野隆に據れば、ランソンがそのフランス文學史で以下のやうに述べてゐると言ふ。(河出書房版『ボオドレエル全集』序文:『印象と追憶』より孫引き)

ボオドレエルの唯一の思想は死の思想である。ボオドレエルの唯一の感情は死の感情である。彼は常住不斷に死を憶ふ。常住に死を眺め、不斷に死を望むのである。死に捉はれ死に渇して、ボオドレエルは基督教徒にはなり得なかつたが、我等に十五世紀の苦悶の基督教を想起せしむる……。それは肉體の腐敗の裡に見出し得る死であり、嗅覺と觸覺とを以つて屍の上に感得する死である。強烈なる理想主義と惡臭を放つ肉慾との獨創的な調合が彼の詩歌を形成する。

T.S.エリオット

中橋一夫が『異神を追ひて』(T.S.エリオットの評論の飜譯。生活社刊)の序文で述べてゐる。

……しかるにボードレールが惡の華の詩人といはれるときには事情は全く違ふ。ボードレールは原罪の意識を持つてゐる。彼は自分の惡が神の罰を受けるに足るものであることを知つてゐる。即ち善惡の觀念があるのである。ボードレールのやうな惡は神の救濟の可能性があるのであつて、彼は眞の意味で信仰家なのである。

同書の私は何處だかでボードレールは宗教詩人であると主張したことがあるがなるエリオットの發言に附された譯註の項には以下のやうな記述がある。

ボードレールの『心の日記』の英譯につけられたエリオットの序文のなかに述べられてゐる(これは岩波文庫のなかに矢本貞幹氏によつて邦譯されてゐる)。そこでボードレールが本質的にキリスト教徒であることを言ひ、ボードレエルの惡魔主義から餘り名譽にならない裝飾品を切離すと、その惡魔主義はキリスト教の一部分、併し非常に重要な一部分を仄かに直觀するところまで來てゐる。惡魔主義そのものは、單に見榮でない限り、裏口からキリスト教へ入らうとする企であつた。言葉の上ばかりではなく、精神に於て眞摯な本物の涜神は、一面的信仰から生ずるものであつて、全くキリスト教で固めた者にあり得ないと同じく、すつかり無神論者になりきつた者にもあり得ないのである。と述べてゐる。この論文は本講演の主題を理解するたすけとなるから、もう少し引用させていただく。我々が人間である限り、我々のなすことは善惡何れかであるに相違ない。また善若しくは惡をなす限り、逆説的なもの言ひ方であるが、何もしないよりは惡をした方がよい、少くとも我々は生きてゐるからである。人間の榮光は救濟を受ける可能性であるといふことが眞なると共に、その榮光は永劫の罰を受ける可能性なることも眞である。政治家から窃盜に至るまで大抵の罪を犯す人々に就て言はれる一番惡いことはこの犯罪者逹が永劫の罰を受けるに足るほどの人間でないといふことである。ボードレエルは罰を受けるに足る人間であつた。(矢本氏譯)

オルダス・ハックスリ

聖パウロは言う。「律法なくば罪は認めらるることなし。……のみならず、律法の来たりしは咎の増さんためなり」(『ロマ書』五章参照)絶対の善を信ずるものにしてはじめて、意識的に、悪の絶対性を追究することができる。人は悪魔主義者となるためには、同時に、潜在的にしろ、現実的にしろ、神崇拜者とならなくてはならぬ。ボードレールは裏返しにしたキリスト教徒、キリスト教会の神父のネガ写真であった。彼の哲学は正統派――いや、正統派どころか、ほとんどジャンセニズムに近かった。彼の原罪観(近年においては、これが、正統派キリスト教の試金石である)は健全そのものだった。いわば、イエスのそれよりも、もっと健全だった。幼な子について語るイエスは、「天国は彼らのものなり」と言うことができた。ところが、健全なアウグスティヌスの徒、ボードレールは、子供たちを、「悪魔の卵」と呼んだ。彼は、進歩に関する近代人の信仰を、善きキリスト教徒にふさわしく軽蔑した。そして語った。「進歩をあてにするのは、ベルギー人たちの学説である」(『赤裸の心』より引用)何についてであれ、ボードレールがベルギー的であると言った場合には、彼は、知る限りの一番悪い名前で呼んだことになるのだ。

小西甚一

自然主義文藝の成立よりもわずかにおくれ、ほとんど併行的に、永井荷風・谷崎潤一郎たちの頽唐派(後期浪漫主義)がおこり、自然主義に対抗して、都市的な唯美主義のもとに、反俗精神を示した。詩のジァンルでは、北原白秋・木下杢太郎がこの傾向を代表する。しかし、キリスト教との根源的な対決をもたぬ日本の頽唐派は、ともすれば頽廃の深淵的な苦悩から眼をそらしがちで、単なる享楽主義に傾きやすく、フランスの頽唐派とはかならずしも同じではない。

著作

惡の華

近代人であるボードレールにとつて、ダンディを氣取る事こそが却つてストイックな行爲であつたと、例へば辰野隆が『ボオドレエル研究序説』で指摘してゐる。『惡の華』では、從來の價値觀から判斷すれば醜惡としか言ひやうがなくとも、近代の新しい世界では寧ろ美しいと言ふべき行爲をボードレールは描いた。言はば現代にふさはしい新たなる道徳觀をボードレールは表現した積りだつたのであり、それは裏返しのカトリシズムでもあつたのだが、起訴されて、一部の詩のみを不道徳とする判決を下されてしまつた。ボードレールは激怒した。ボードレールは本氣だつた。

惡の華 岩波文庫版
鈴木信太郎譯。岩波文庫。
惡の華 三笠書房版
齋藤磯雄譯。三笠書房。戰後、詩集ブームの頃に出た版。
惡の華 齋藤書店版
佐藤朔譯。齋藤書店發行。戰後に出た二卷本。一卷が昭和二十一年九月五日發行。二卷が昭和二十二年四月二十日發行。合本版と内容は同じ。一卷の卷末に、戰後の印刷事情による全く餘儀ない理由のため分册となつた、と報告する「後記」がある。
全譯 惡の華 齋藤書店版
佐藤朔譯。齋藤書店發行。戰後に出た合本。昭和二十二年十月三十日發行。分册版第一卷にあつた「後記」は省かれてゐる。一往ハードカヴァだが、本文の紙質は分册版よりも劣る。
世界名作選集 惡の華 創人社版
北上二郎(矢野文夫)訳。昭和三十年四月二十日發行。本文正字正かな。後記によればCalmann-Levy版ボオドレエル全集に據つた飜譯で、百五十八篇の全譯は、世界最初のものであるとの事。
惡の華 新潮文庫版
堀口大學譯。新潮文庫。
惡の華 創元選書版
齋藤磯雄譯。創元選書。

散文詩集「巴里の憂鬱」

晩年に書かれたもの。意外な事だが、大詩人ボードレールの詩集は、『惡の華』とこの散文詩集の二册しかない。散文詩集に收められてゐる詩の殆どは、ボードレールが體調を崩し、かなり精神的に參つて來た頃に書かれた。もつとも、晩年と言つても、死んだのが四十六の時だから、老齢だつた譯ではない。

ボードレール散文詩集
齋藤磯雄譯。
本文は正字正かな表記。但し誤が多い。印刷會社が戰後の僅二十年の間に、以前の印刷技術を失つてしまつた事を示すもの。

☆「ボードレールのように俗論に抗してフランス語の伝統的な綴字法を厳守した詩人、しかもその格調高い作品がすでに古典の中に揺がぬ地位をもつ詩人は、これを日本語に移す場合にも正漢字・正仮名遣を用いるのが原著者に対して、誠実な態度であると思う」という訳者齋藤磯雄先生のご意向に添うべく小社編集部は異例の努力をしたのですが、活字の不備から或る種の活字の形態に関して充分な成果をあげ得なかったふしがあり、大変残念なことですが、この点、訳者・読者の皆様に対しても深くお詫びを申しあげる次第です。又、刊行日が遅れたこともかさねてお詫び致します。

散文詩 青磁社版
村上菊一郎譯。
パリの憂愁 岩波書店版
福永武彦譯。畫像は改譯版のもの。
巴里の憂鬱 思索選書版
高橋廣江譯。讀み易い事は讀み易い譯文だが、かなり卑俗であり、少し古臭い印象。但し、それ程、惡くはない。
巴里の憂鬱 角川書店 飛鳥新書版
三好達治譯。典型的な飜譯調である。「佛蘭西象徴派詩人の文體」と言ふと、日本では案外この種の「飜譯調」と直結して考へられる事が多いやうに思はれる。畫像は戰後の再刊本。
石原八束編著『達治のうた』(社会思想社・現代教養文庫655)における石原の記述に據れば、三好はボードレールに影響を受けてゐた事があると言ふ。

「鴉」は昭和四年十二月「詩と詩論」第六冊に発表。同じこの十二月に三好はボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』を翻訳刊行したが、ボードレールおよび大学卒論のテーマであったポール・ヴェルレーヌなどフランス象徴詩派の影響と、昭和三年秋創刊の新詩運動(エスプリ・ヌーボー)『詩と詩論』の第一期同人に参加したことなどから受けたモダニズムの洗礼によって、この期の三好達治の詩風は最初期の頃より大きく変わったといっていい。……。

とは言ふものの、かうした影響が顯著に見られるのは飽くまで一時期(『測量船』の頃)の事であると石原は述べてゐる。もっとも三好とモダニズムとの関係は消極的に考えられているのが普通である。

詩集(譯者による選譯)

新譯ボオドレエル詩集
太宰徹雄譯。京文社書店發行。譯文は意外と讀み易い。「散文詩」の劈頭に置かれた詩「異國人」は、他の譯者と違つて、輕快に譯されてゐる。
ボオドレエル詩集 創元選書版
鈴木信太郎譯。辰野隆による略傳と、佐藤正彰による譯詩小解、及び解説「ボオドレエルと象徴派」を含む。
ボードレール詩集 旺文社文庫版
佐藤朔譯。
ボオドレエル詩集 世界の詩 6
齋藤磯雄譯。
ボードレール詩集
粟津則雄譯。みすず書房發行。『惡の華』『新・惡の華』『パリの憂愁』からの選譯。現代的な散文譯。現代の讀者には馴染み易いのだらう。

評論集

ボードレールは1845年、サロン批評をもつて文壇に登場。近世美術批評を一つの分野として成立させた。ボードレールは、詩人として有名だが、評論の數も分量も多い。

(ゴーティエについて論じて)詩には、教訓を與へる事、眞理を追究する事とは異る、獨自の目的がある、とボードレールは主張してゐる。それは「美」である。「美」を實現するには、感情的な熱狂は激越に過ぎる。理性の領域への感情の侵入は許されない。詩に於ては、言葉による完璧な表現が要求される。かうしたボードレールの考へ方は、近代的な詩人の思想として、T.S.エリオットにも影響を與へてゐる。

ボードレール評論集(1) 創元文庫版
ボードレール評論集(2) 創元文庫版
ボードレール評論集(3) 創元文庫版
佐藤正彰譯。主な評論の全文或は拔粹。
ボオドレエル藝術論集 芝書店版
ボードレール藝術論 角川文庫版
佐藤正彰・中島健藏共譯。芝書店版と角川文庫版とでは内容に異同がある。

人工樂園

藥物を使用する事についての評論集。陶醉についての研究でもある。「懺悔録」のルソーはアシーシュをやつてゐる時の人間と同樣の自己陶醉に陷つてゐた、とボードレールは述べてゐるけれども、鋭い指摘である。

人工樂園
渡邊一夫譯。リバイバル復刊の時のカヴァ。

アフォリズム

ボードレールが抱いてゐたストイシズムの意味を理解しなければ、彼の表現した「惡」の觀念を理解する事も出來ない。物質的に富めるやうになつた近代社會において、奢侈は必ずしも惡ではない事、清貧こそ僞善である事を、ボードレールが確信してゐたのだ、と考へない限り、『惡の華』でボードレールが示さうとした近代的な道徳觀は理解出來ない。アフォリズムの中には、ボードレールの現代的でアイロニカルなストイシズムを示したものが、幾つも含まれてゐる。

赤裸の心 飛鳥新書判
河上徹太郎譯。アフォリズム。「覺書」等。
赤裸の心 角川文庫版
河上徹太郎譯。
赤裸の心・覺書 創藝社版
堀口大學譯。寫眞の本は、カヴァの背中に書かれてゐる通り(讀めないかも)、第二版。
感想私録 小學館版
堀口大學譯。

全集

ボードレール全集 河出書房版
戰前版・五卷本(四卷は未購入なので畫像に入つてゐない)。本來は函入り。
第三卷のみ函入りのものを持つてゐる。
ボードレール全集 2、5卷缺
戰後直後版・?卷本。

書簡

母への手紙 創元選書版
佐藤正彰譯。
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