講談社学術文庫に收録(1988年11月10日 第1刷発行)。
以下は講談社学術文庫版『平生の心がけ』(1988年11月10日 第1刷発行)による。講談社学術文庫版は卷末に阿川弘之の解説を附す。
以下は講談社学術文庫版『平生の心がけ』(1988年11月10日 第1刷発行)による(pp.122-123)。
日本語の純正を守り、その品位を高め、その内容を豊富にすることに、最も意識的に苦心した第一人は、森鴎外であろう。彼が、一方では文法と正字法(orthography)を厳守し、他方では、常に注意して、内外を問わずあらゆる適切の新語を採り入れ、或いは自ら鋳造したことは、人々の知る通りである。鴎外は固より国語の凝固を願うものではなく、それが時とともに変遷し、或る意味においては頽れて行き、また、それを承認することが必要でも、至当でもあることを、知っていた。しかし、この事は言語に対する不勉強と放縦とを弁護する口実にせらるべきではない。鴎外は言語の変遷を認めたが、これを承認する上において、いやしくも軽率、雷同、無見識に陥ってはならぬと警めたのである。私は国語に対する鴎外の態度が、時には潔癖と拘泥に過ぎることもあったのを認めるが、彼れの根本原理は動かし難く、その警告は、いつの時においても、常に憶い起こさなければならないものであると思う。
鴎外が明治四十一年、臨時仮名遣調査委員会の会合において「仮名遣に関する意見」を演述し、ついに仮名遣改正案を撤回させたことは、そのひそかに誇る手柄であったが、今この「意見」を読めば、言語の上で、群衆が道のないところを歩いてそれがやがて道となることを、彼が一概に否認していないことは明らかである。ただ、何の必要も便宜もないのに、ただ文盲と不注意とのため、道があるのに態々道のないところを歩くものの出た場合、急いでそれを承認する代りに、本当の道はここにある、と教えることは、何の造作もない筈だということを説いたのである。。
……。
以下は講談社学術文庫版『平生の心がけ』(1988年11月10日 第1刷発行)による(pp.129-142)。
仮名遣の問題については、私は多くの疑問を持っており、広く専門学者、文学者の説を聴きたいと思っている。私と同感のものは多いと思う。今、私がそれをいうほど、それほどこの問題は、一般の世間と離れたところで論議せられ、決定せられた観を与えているのである。
私の結論をいえば、歴史的仮名遣改正の問題は、すべて速かに白紙に返し、わが国文化の大問題として、これを世間の前で、三年五年を費して充分に論議し、自ら議論の帰着するのを待って、それに従って改正するのが好いし、また一致した改正意見が得られなかったら、それを思い止まるべきものと思う。学校教科書の改訂は、すべてこの結論の得られた後に始めて行うべきものである。政府当局者がこの当然の順序を履まず、未だ仮名遣に対する学界の定論の承認に至るを待たずに、勿々教科書の改訂を行わせたのは、まず既成事実を造って、もって結論を牽制するという意図に出でたのでない限り、順序を誤ったものといわれなければならぬ。
外でも一度説いたこともあるが、往年、南北朝正閏論というものが世間を騒がした折りに、幸田露伴が、学者の学説は自由であるが、学校教科書にそれを採り入れるのは、それが学界の定説と認めらるるに至って後のことにしなければならぬ、といったのは、今もって動かし難い鉄則である。
南北朝正閏論といっても、今日憶えている人も少ないであろう。それはおよそ四十年前、明治の終りの頃の世間を騒がした問題で、南北朝果していずれが正統であるかにつき、学校教科書に新説を載せたことが発端となったのである。露伴はこの問題に対する意見を公表しなかったが、その蝸牛庵日記に思うところを述べた。その明治四十四年二月十六日の条下にいう。
「南北朝論一世囂々。……当時学者皆定案を翻すを以て功名の如く心得、終に起らずもがなの論をひき起すに至れり。喜田氏(貞吉、歴史家)勝つことを好むに近き性質なれども、さりとて暴戻なんどいふ人柄にあらず、其説蓋し拠るところあらん。たゞ先づ之を学界の問題とせずして教科書に翻案(定説を覆えすの意)の言を載せたるはよろしからず。教科書は世の定案に従ひてものすべし。異議あるべきやうのことは先づ学界に相争ひて黒白を決し、全勝を得て後、定説と認めらるゝに至りて、はじめて之を児童に課すべし」と。
正に然り。仮名遣の問題もまずこれを学界に提出し、甲論乙駁と相当の年月を経た後、自ら定論と認めらるるものの成立するのを待って然る後にこれを教科書によって児童に授けるという常道(そうして異議のあることは引込めるという常道)を履むべきであった。しかし、国語の問題は、永い将来のために議すべきもので、三五年の遅速を争うべきではない。今から速かに常道に復することが願わしい。
新仮名遣制度の時期も、よくなかった。あれは終戦直後、占領下のことで、当時、人は敗戦の後悔と占領軍に対する畏怖とから、今まで日本にあったものや日本人のして来たことは、すべて皆な間違いであったという気分に捉われがちであった。従って、一切自国の文化財の価値に対し、必要以上の自卑に陥り、何でも、ただすべて在来のものを廃棄することが、即ち民主的もしくは進歩的であるとする風があり、またこの風を憚かり、国語の問題の如きについても、言いたいことも言わないという傾きが見えた。
現代かなづかいは果たして進駐軍当局者の意を迎えて定められたものか、また、自説に利するために進駐軍の勢いを借るものがあったのか、否なか。凡べてそれは今取り上げる必要のないことである。いずれにしても、兎も角も進駐が終って、国民の自信が徐々にでも恢復せられつつある今日、吾々はこの大きな問題を、将来のためにもっと冷静に且つ忌悼なく論議することが出来るであろう。それをし直すべきである。
現代かなつかいは発音通りに書くを本則とするという。その主旨のあるところは、誰れにも分る筈と思う。発音通りというのは、今日の発音通りということであろう。しかし、発音は時とともに遷る。遷れば、その変った通りに書けというのであろう。そこで同じ意味が、時を異にすれば、違った書き方で現されることになる。それが至当であるのか否なか。また諸国語を通じて、この問題に対する定説があるのか否なか。私は、前記の通り、国語に関する多くの問題について保守的の考え方をしているが、しかし敢えて我見を固執するものではない。この点に関し、専門学者の定説があるなら、是非ききたいと思うのである。
発音通りに書くということにつき、私は幾つかの疑問を持っている。一二の例を引く。
ミニヨンの歌にある、
Kennst du das Land, wo die Zitronen blühn ?
(君は知るや、かのレモンの花咲く国を。)のこの国という名詞即ち、das Landを、誰れもランドと、は発音しない。軽くラントと、tのように発音する。しかし、この国が複数になって、Länderとなれば、誰れもハッキリ、レンデルと、dをdと発音する。この場合、 一々発音通りに書けということは、単数の国はdas Lant、複数の国はdie Länderとせよというのであろうか。そうだとすると、発音と綴りとは一致するが、意味の方は不明になって、両者の違いは、同じ名詞の単複数にすぎぬことが、通じ難くなるであろう。それでもなお綴字は一々発音に従うべしとすべきであるか、否なか。
lieb(可愛らしい)という形容詞がある。それと同根のlieben(愛する)という動詞がある。Das Kind ist zu lieb.(この児は本当に可愛い)というような場合には、リイプ、即ちbをPと発音する。Ich liebe dich.(われ汝を愛す)という場合には、リイベ、即ちbをbと発音する。
この場合一々、前の場合にはliep、後の場合にはliebとすべきであるか。しかし、抑もこの二つの語は、同根である。もし一方の場合にはPとし、他方の場合にbとしては意味の不通が起りはせぬか。いわんや、この児は可愛い、というときはpで書き、可愛い子供、(liebes Kind)、というときはbと書けという如きは、吾々の常感に逆らうものであろう。問題は簡単で、この同根の語の或る同じ文字が、或る場合にはpの如く、或る場合にはbの如く発音されるというに過ぎず、これを許容することに何の差支えもなく、これを許容せぬことによって、却って厄介が起るというに過ぎないであろう。
日本語でも当然同様のことがある。例えばアリガタイ(有り難い)、アリガタク、アリガタウという。この場合のタウはトオ(トー)と発音されている。それを現代かなづかいは、アリガトウと書けという。カタイ、カタク、から引いてカタウと書くことは、理由がある。それをガトオと読ませることに何の差支えもない。ただ、そう教えれば好いのである。それはLandのdをtに発音し、liebのbをpと発音することと同様と考えられる。それをLantと書き、liepと書き改める方が、却って誤解を導くのである。また、アリガタウは今日、アリガトオ(arigato-o)と発音せられ、誰もアリガト・ウ(arigato-u)と発音するものはない。それをカト・ウと書いて力トオと読ませ得るならば、この場合カタウと書いて力トオと読ませると教える方が、遥かに理由があるといえるであろう。ソオデスカをサウデスカと書き、キヨオノ佳キ日を、ケフノ佳キ日と書く等々々、皆同じといえるであろう。
更にまた、ヂとジ、ヅとズの発音を明瞭に区別し、例えば藤と富士とは決して混同しない地方の現にあることは別としても、ハナカラチガデル(鼻カラ血ガ出ル)ハナヂガデルと書き、ミソニツケタ魚(味噌二漬ケタ魚)をミソヅケの魚と書く方が、ハナジガデル、ミソズケの魚、と書くよりも理由がある。偶々このことは、二語の連合によって生じた場合として例外的にヂ、ヅと書くことを認められているが、土地(トチ)の主はジヌシとせずして、ヂヌシとすべきであり、貨幣流通の通がツウならば、資金融通の通はズウでなくてヅウであるべきであろう。偶々見た大久保利通の日記、明治九年二月廿七日の条下に、彼れが始めて福沢諭吉に会ったことを記してあるが、「……五字(五時)鮫島子之訪、福沢子入来にて種々談話有之面白く、流石有名に恥ず」とある。これは有名に恥じないと書いたのであるが、これ等の場合ヂはジ、ヅはズとすべしという新かなつかいの原理は、これをどう取り扱うことを至当とずるのであろう。
英語の例を一二考えると、例えばstraightという語とstraitという語とは、発音記号は全然同じである。そうして、二つは全く別の語で、前者は真直ぐな、真直ぐに、という形容詞または副詞で、後者は海峡とか狭い水路とかいう名詞である(文語で、狭いという形容詞にも用いられることもあるが)。
この場合二の語の発音が全く同じであって、そうして綴りが違うのは不都合だとして、真直ぐという語も、海峡という語も共にstraitに書くべきものと定めて好いか、否なか。騎士というknightも、夜というnightも、やはり発音は全く同じであることが辞書に出ている。これも今後は改めて、騎士もnightと書くべきものと定めて差支えないか否なか。かかる改変は、或る種の理論家を満足させるかも知れない。しかしこれに由って生ずる混乱の不利益は、かかる満足によって充分償われるであろうか。少なくもそれは一の疑問であろう。
なおそこに厄介なghがある。こんなものは放逐してしまうが好いのかどうか。先年アメリカ旅行の際、場末の寄席の看板に、毎夜二回興行という意味で、Twice nitely(nightly)としてあるのを見た記憶がある。nightは寧ろこのようにniteとでも改むべきだという議論も立てられるか否なか。その場合、仮りに小学校で、夜はniteと書くべきものと教えられた児童が、古今の英文学や科学上の著述を読んで、夜という語に逢う毎に感ずる難渋は、綴字法改正の利益によって十分償われることが確実であるか。そこに際限のない議論が起るであろう。
バァナアド・ショオは執拗なる新綴字法の主張者で、終始シェクスピアをShakespeareと書かずにShakespearと書いた。彼れはghotiと書いて何と読むか。それはフィッシ(fish)と読めるといった。即ちエナッフenough(充分)という語のghはfと発音せられ、女子の複数のウイメンwomenではoがiと発音ぜられ、国民というネエションnationではtionがshunと発音されていることからのイタズラである。私はショオがどこでそういったのかを知らず、ただアメリカの雑誌の記事によって書いたのであるが、何時も歴史的綴字法の不合理を鳴らしてばかりいたショオとしては、当然言いそうなことである。
たしかにこの点だけ見れば、英語の綴り方には不合理と見えるものが多い。ただ然らば、文字はすべてこれを発音記号と同視して、その歴史的形態に頓着なく、時によって異なり、地方によって異なる発音に、一々違った綴字を宛てるべきか。そこになお大きな解かれない疑問が残る。
英語ではfishと書くべきにghotiと書くような「不合理」が犯されているとして、然らば、今後enoughをenoufと、womenをwimenと、nationをnashunと書き改めることが正しいか、また、望ましいか否なか。それが仮りに或る理論上の根拠を有するとしても、それによって生ずる混乱は、理論一貫の利益によって果たしてよく償われるものであるか否なか。この新しい綴字法によって教育せられた児童少年少女にとっては・シェクスピア以下幾世紀に亙る英文学の名作品といわず、科学上の論文も新聞雑誌の記事論説も、皆な殊更に読み難いものとされるのである。
抑も一国の児童をして文字を知らしめる最も肝要の目的の一は、彼等をして、その民族が産した偉大なる作家思想家の創造物を、読むを得しめることにあるのではないか。今、強いてそれを困難ならしめるような文字の綴法を教え、それによって別に得るところがあるとして、その利益というものは何か。それとこれとを比較して秤りは確かに彼れに傾くと、いえるのであろうか。またそれは誰れが言ったら好いのであろ
日本の仮名遣の改定についても同様であって、現代かなづかいに、それはそれとして一応の理由のあることは、誰れも知っている。ただその理由とするところを、どの程度に重んずべきか。今の児童や少年少女にとって、敢えて日本の古典といわず、明治以来の福沢も鴎外も漱石も露伴も志賀も谷崎もを、皆な強いて読み難いものとならしめるような文字の教え方を新たに始めて、それで果たして好いものか、否なか。少なくもそれは疑問である。そんな疑問の残っている問題を、何だといって急いできめるのか。それは慎重の上にも慎重を期すべきものではないか。
私は現代かなづかいを是とする意見を抱く人を、少しも非難しない。バアナアド・ショオがShakespearと書き通したことが彼れの自由であったように、新仮名遣を主張すること、またそれを自分で実行することは、誰れも妨げらるべきではない。ただそれはどこまでも文字に関する一の学説として取り扱わるべきものであって、まだ学界の議論も定まらぬ中、多くの学説の中の一つであるこれだけを、政府の権力またはそれに類似した力をもって強制すべきものではないというのである。
或る委員会が、国字に関する研究をして、その多数決または全会一致をもって、或る結論を得たとする。それを発表して、世間の批判の前に置くのは結構なことである。ただそれは差し当り、どこまでも一の意見として取り扱わるべきものであって、それに対する世間の批判が言い尽されぬどころか、まだ出始めもせぬ中に、内閣がその使用を訓令して一切の公文をそれに拠らしめ、延いて否応なしに世間一般をそれに従わしめるようなことをするのは、間違っているというのである。(それが間違いであることについては、当時すでに文藝春秋の誌上に、憲法学者たる故美濃部達吉博士の明快なる批判があった。)また大新聞が。一斉にその採用を決して、社外の人の寄稿まで、一切それに従わしめ、有名な文学者の寄稿をも、この新しい仮名遣に従わぬからとて謝絶したものがあると伝えられる如きは、もし事実ならば、法外の所為である。新聞の如きは、自らこの新しい国字学説の可否を論評するとともに、賛否両論を充分相戦わしめる演壇を供することをこそ任務とすべきであるのに、倉皇として両説の一方に加担し、反対の立場を守るものの寄稿を閉め出すというようなことをまでしたのは、少なくも軽率または不見識の識りを免れぬ。幸いにして最近に至って、大新聞編集部の固執は幾分緩和せられ、私の関知する限りにおいては、社外寄稿者の意に反して現代かなづかいを強制するということはなくなったようであるが、なお多くの筆者は不自由を感じていることであろう。
私は仮名遣に関して前年来多くの人と個人的に意見を交換して見たが、新法に賛成するという人々も、私が上に述べて来たような疑問に対して、存外確たる解答を持っていない。また、これに反対するものも、宛かも災難だから諦らめようとでもいったように黙して已むという風のものが多い。要するに、これほど重要の国字問題に対し、人々は賛否ともに充分意見を吐露せぬままに過ぎているというのが実情であると思う。勿論新聞ばかり責められないが、大新聞がこの問題について、問答無用の態度を取ったことに一部の責任はある。これは新聞社にいる私の多くの友人知人にも直接にたびたび言って来たことで、常に私の遺憾とするところである。
前にもいう通り、私はこの問題について多くの疑問を抱いているが、敢えて我見を固執しようとするものではない。ただ私と同様の疑問を抱いている人は無数であろう。真に仮名遣を改正すべき理由と必要があるなら、固より憚るべきではないが、それは充分の論議の上の定説を待って始めてすべきことであり、決して三五年の遅速を争うべき問題ではない。殊にいわんや外国軍隊による占領下という如き、異常の状態の下において決すべきことではない。
私はカアル・マルクスが自らドイツ語の伝統を尊重し、その純粋を守る上に最も厳格であったこと、そうして、常に後輩の文章を喧しく叱正した話を、二三ヵ処に書いた。それは他にも記載があるかも知れないが、私は、彼れの後輩ウィルヘルム・リイプクネヒトの『マルクスの思い出』(一八九六年出版)に拠って書いた。委しいことはここに省略するが、マルクスがいかに言語の乱雑を嫌って、流俗主義に譲歩しなかったかを、自らその小言を聴かされた著者は、そこに具さに語っている。
日本の仮名遣の問題について、私は、一部に新仮名遣に拠ることを進歩的、然らざるものを反動的と見るような即断がありはせぬか、そうしてまた、日本人の弱点として、この反動の悪名を恐れて、言いたいことも言わずに黙し、更に納得できないことにも賛成の顔色を整えて、他意なきを示すようなものも、ありはせぬかを懸念する。それは必ずしも思い過ごしとのみはいえぬと思う。かかる場合に、マルクスが言語の問題に厳格であったのを知ることは、或る人々を力づけるであろう。
マルクシズムに対して如何なる立場を取るにもせよ、何人も、彼れが当時における最も急進的な民主主義者であり、どんな定義に従っても、保守反動の旧弊人と見らるべきでないことを、争うものはない。国語の問題について、道理ある行動をしたいと願うことは、真実の意味における民主主義とも進歩主義とも、少しも抵触するものではない。少しも気兼ねは要らないのである。