制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-06-22

岸田國士『現代風俗』

『現代風俗』
昭和十五年七月廿五日發行
弘文堂書房

評論や隨想、從軍記などを收める。

評論集に戲曲の收められた嚆矢?

本書所收の「風俗時評」は戯曲。岸田氏は、「續 言葉 言葉 言葉」(矢張り本書所收)で以下のやうに述べてゐる。

私は嘗て、「何かを云ふために戲曲を書くのではない。戲曲を書くために何かしらを云ふのだ」と揚言し、自分の戲曲文學に對する熱情と抱負とを、明かにしたつもりである。

が、それにも拘はらず、初めて「何かを云ふために」書いた、この戲曲ならざる戲曲「風續時評」は、私の十年に餘る文學生活を通じて、未だ嘗て遭遇したことのない反響を呼び得たのである。

愛國心について

大政翼贊會文化部長であつた岸田氏だが、本書所收の文章「愛國心」で、以下のやうに述べてゐる。

僕は日本人であることを恥ぢもしないし、矜りともしてゐない。つまり、これこそ、人間に生れたことと同樣、實に運命的であり、偶然であり、誰の力でもどうすることもできないことである。だから、それについて、愚痴もこぼさないかはり、感謝もしてゐないといふ當り前な前提をしておいて――

日本は世界の他の國に比べて、善いところもあり、惡いところもある。しかし、われわれの祖先並にわれわれが、その善いところ惡いところの一部を生み出し、育ててゐることは爭へない。それに對しては、眞劍に考へなければならぬと思ふ。ただ、日本は世界の他の國に比べて優れてゐるから、その日本を愛するといふ考へ方には危險が伴ふ。……。それと同時に、日本の惡いところを、さも手柄顏に取りたてて、これだから日本は嫌ひだといふのも少し早すぎる。……。

僕は、日本國民として、日本のどこが好きか? と問はれれば、ちよつと困ることを告白する。はつきり云へないといふよりも、そんなに好きなところはないやうな氣がするのである。……。

僕は文學者として、別に「愛國文學」を作り、又は提唱しようとは思はぬ。國民大衆の愛國心は、所謂「愛國主義者」のデモンストレエシヨンによつて、判斷することもできず、官憲や教育當事者の日本精神鼓吹によつて、高め得るものでないのである。現にそれは憂ふべき逆效果を生みつつあることに、彼等は氣づかぬのであらうか? フアツシヨの名を以て呼ばれる愛國主義が、いかに心ある民衆の希望を、祖國日本より引離しつつあるかを見ればわかる。國民の表象たるべき事物に對してさへ徐々に感激を失ひつつある國民を誰が作つたか?

支那とは日清戰爭の直後當然大使を交換すべきであつたとは、十數年前から私は考へてゐた。支那人をもつと尊敬すべし。少くとも彼等に對し優越感を示すといふことは、まつたく國辱である。

初出は「文學界」の「リレー評論」である。1936年8月に書かれた。別題「日本に生れた以上は」。既に軍國主義の體制が出來つゝあつた時期に、良く出版されたものである。

『日本教養全集17』(角川書店)の解説で岸田氏のこの文章に觸れて、小松左京氏がかう述べてゐる。

戦後「日本人畸形説」につづいて書かれた「平衡感覚について」というエッセイがあるが、日本が二・二十六事件についで、いよいよ泥沼の軍部独裁と日中戦争に足をふみ入れようとしつつある昭和十一年の時点において、これだけの事を言うという事は、なみなみならぬ強靱な、ほとんど「思想的バックボーン」といっていいような、「平衡感覚」の持ち主であるといわねばなるまい。……

そして、その国際性を持つ「平衡感覚」は、この論を現在もそのまま通用する「常識の大道」を示すものとしている、と小松氏は評してゐる。

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