制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2006-01-03

『大學生活の反省』

『大學生活の反省』鬼怒書房
昭和二十三年十月十五日發行

「序文」より

本書を貫く私の根本思想は、本書の何れの論文にも改めて述べられてはゐない。それは先頃刊行した拙著「社會政策原理」(日本評論社發行)の第四章の第二節乃至第四節に詳説されてゐる。一言にして云へば哲學に於て理想主義を採り、社會思想に於て社會主義を採り、政治思想に於て議會主義と言論自由主義とを採るそれである。此の立場を大學と云ふ特殊の對象に適用した時に生れたのが本書の各論文であつた。私の社會主義と議會主義とは、事柄の性質上、本書の中に現はれることは尠いが、理想主義は第二篇に於て、言論自由主義は第一篇に於て、到る處に姿を現はしてゐると思ふ。之等の論文を書いたその時々は必要に迫られて忽忙の裡に筆を走らせたのであつたが、今からして集めてみると、偶然にも本書は私の根本思想を一脈の連鎖として、相互に聯關してゐることを感ずる。前著「トマス・ヒル・グリーンの思想體系」に於て述べた理想主義の哲學を現存資本主義の社會秩序に適用して「社會政策原理」となつたやうに、大學の諸問題に適用したのが本書となるに至つた。

だが私は大學の自由を唱へたことに於て、不幸なる運命に逢着した。始めに私の思想の體系を公にしないで、先づ大學に關する言論自由主義を唱へた爲に、自由主義なる名稱と私とは不可分に考へられ、私は爾來自由主義者と呼ばれて來た。若し始めに私の思想の體系を公にしたならば、言論自由主義なる思想が私の思想の體系に於ていかなる地位を占めるかが理解されたに違ひない。時間の前後が顛倒した爲に、私は不運なる名稱から容易に脱却しえなかつた。然し若し私の思想の全面を理解する勞を惜しまれないならば、又更に凡そ自由主義なる思想の現時の形態の一端をさへ把握してゐたならば、人は私を呼ぶに自由主義者を以てはしないであらうと思ふ。若しある思想の分野に人を屬せしめるならば、私は理想主義哲學の上に立つ社會民主々義者の範疇に屬せしむべきである。

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