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野嵜健秀(Takehide Nozaki)

平泉澄

我が歴史觀
大正十五年五月十日 發行
武士道の復活
昭和八年十二月十五日 發行
建武中興の本義
昭和九年九月十日 發行
萬物流轉
昭和十一年十一月三日 發行
菊池勤王史
昭和十六年四月三十日 初刷發行
天兵に敵なし
昭和十八年九月十日初版發行
芭蕉の俤
昭和二十七年五月八日 發行
山河あり
昭和三十二年十月二十五日初版發行(正篇)
父祖の足跡
昭和38年(正篇)
山彦
昭和42年11月20日 初版發行
日本の悲劇と理想
昭和五十二年三月三十日 発行
明治の光輝
昭和五十五年五月十日 初版

平泉澄は所謂「皇國史觀の歴史學者」として惡名高い。戰爭前及び戰爭中の激越な調子のアジテーション的な著述や發言が強調され、「戰犯」としてウェブでも散々に罵られてゐる。しかしながら、戰前・戰中にあれほどまでに持上げられ、盛に讀まれたにもかかはらず、敗戰と同時に立場を失ひ、戰後は「右翼」「皇國史觀」と云ふ認識だけが一般化した、と云ふのは、「讀む側」にも問題があると言はざるを得ない。そこまで極端に讀み方がぶれる、と云ふのは、國家レヴェルで何かがをかしい。

歴史を純粹に・客觀的に・科學として扱ふ事を拒否し、歴史的な人物を一人格として認める、と云ふ「主觀的」な態度を平泉が主張した事は、「尊敬すべき人物」を賞讃する極端な態度に繋がつた事で、戰後、左翼に據つて徹底的に排された。それゆゑに、現在は、科學的・實證的な態度が極端に主張され、行き過ぎとなつてしまつてをり、却つて平泉が主張した態度が、中庸の爲に必要となつてしまつてゐる。

また、戰後、平泉の學統は、非常に弱體化したものの、根強く殘り、全共闘の時代を經て、現在の保守陣營の淵源の一つとなつてゐる事は、事實である。右翼・保守主義が「復權」を果しつゝある現在、平泉の主張を冷靜に檢討する事は、右派のみならず左翼陣營にも要請される事となつてゐる。左翼丸出しの人物が時々平泉の發言を面白をかしく言立て、嘲つて、それで話を濟まさうとしてゐるのを見るが、全く建設的でない態度だと思ふ。


個人的には、學説・主張それ自體、餘り面白みを感じられない。それなりに著作は集めたが、餘り讀んでゐない。

ただ、平泉を、「皇國史觀」と云ふ言ひ方で非難し、人に讀ませるのを妨碍する人々があるけれども、さうした態度には賛同し得ない。「日本國憲法」第一條で、吾々國民は全員、天皇を日本國の統合の象徴として認めてゐるわけで、皇室に對する愛情や敬意を抱かせるやうな著作を一概に封殺しようとするのは如何なものか。

『山彦』や『山河あり』のやうな隨筆集に、美しい自然と立派な人々を褒めた、いい文章が幾つかある。『少年日本史』は年少者向けに讀み易い文體で書かれてゐる(講談社学術文庫に『物語日本史』の題で再録)。

著書

Wikipediaで再三に渡り記事から削除されてゐるリストを轉載。誤がある可能性がある。

単著

編著

監修

校訂

※時事通信社版『近世日本国民史』の刊行日時の記述に徳富蘇峰『近世日本国民史』一覧との喰違ひがある。

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