制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
野嵜健秀(@nozakitakehide)さん | Twitter:2015年11月04日(水)
公開
2015-11-08

ハンス・ケルゼン『正義とは何か』

野嵜は常にウェブでは(正漢字)正かなづかひで書き、實に屡、「趣味を押しつけるな」と言はれてきた。野嵜が(正漢字)正かなづかひで書く事は、所詮野嵜の趣味であり、野嵜が(正漢字)正かなづかひを讀み手に押附けてゐる事になるのださうだ。

「趣味を押しつける」事の何が惡いか、と野嵜は反論したい。

そもそも正義は全て人の好みである。何かを「正しい」と思ふのは、その人が單にその何かを「好きだ」と思つてゐるに過ぎない。然るに、人は自分の好みを他人に押附けたがるのである。

價値相對主義を信奉する人は多く、さうした人は價値相對主義を典據に正義の相對性を指摘する。彼らは「正義を押しつけるな」と言ふし、それを當り前の事と思つてゐる。ところが、正義だからこそ「押附けてなんぼ」なのだ。


ケルゼンは言つてゐる。

人知の歴史が、われわれに、何者かを教えることができるとすれば、それは、合理的な方法で、絶対的に有効な、正しい行動の規範、つまり、反対の行動も正しいものとする可能性をなくしてしまうような規範を発見しようという努力が空しいものである、ということである。もし、われわれが、過去の知的経験から、何者かを学ぶことができるとすれば、それは、人間の理性が、相対的な価値しかとらえることができないということ、つまり、何者かを正しいとする判断は、決して、それと反対の価値判断の可能性を排除する資格がない、ということである。

或正義は、それに反する正義が誤であると決める事はできない。

絶対的正義というのは、非合理的な理想 Ideal というほかはない。合理的認識の立場からは、ただ、人の諸利益、と、それゆえ、利益の衝突だけが存在する。

この利益の衝突を解決する方法は、一方の利益を、他方の利益の犠牲において満足させるか、または、双方の利益の妥協をはかるかの、二つの道しかない。一方の解決が正しく、他方の解決が正しくないということを、証明することは不可能である。もし、社会の平和が最高の価値であるとすれば、妥協的解決が正しいものと思われるだろう。しかし、平和という正義(正しさ)も、ただ、相対的な正義にすぎず、決して、絶対的な正義ではありえない。

ケルゼンは平和である事を好んでゐたが、平和を絶対的な正義であるとは言はなかつた。平和もまた相対的な価値である事をケルゼンは認めざるを得なかつた。平和を一番優先する平和主義の立場をとらず、價値・正義は全て相對的なものであると考へる價値相對主義の立場をケルゼンはとつた。

が、價値相對主義が、一切の價値、一切の正義の存在意義を否定し、ありとあらゆる人間的營爲を無意味であると看做す事を、ケルゼンは拒否してゐる。

相対主義的正義哲学のモラルをケルゼンは檢討して、價値相對主義からは寧ろ寛容の原理こそが要請されると結論を下した。

……。相対主義的価値理論の基礎となり、または、その結論として生まれる道徳原理は、寛容の原理であり、他の宗教的ないし政治的意見を、好意的に解し、たとえ、意見が同じでなくとも、いや、まさに、意見が同じでないからこそ、他の平和的な意見の発表を妨げないという要求である。相対主義的世界観からは、絶対的寛容についての権利が生じないことは明らかであり、その寛容は、被治者に平和を保障し、あらゆる力の行使を禁ずるけれども、意見の平和的な発表は制限しないという、実定法秩序の範囲内だけの寛容である。寛容は、思想の自由を意味している。

逆に言へば、「思想の自由」「言論の自由」と云ふものの根據としては「寛容の原理」があるのであり、そこには價値相對主義があるわけである。

「思想の自由」「言論の自由」を保障する政府は、いかなる言論であらうとも、言論の範圍内に收まるものならば、全てを許容する事が求められる。「思想の自由」「言論の自由」を否定する言論であらうとも、だ。それが説得的な内容で、多くの人を納得させるやうなものだとしても。

しかし、言論の域を超えた行動までも、政府は認める必要はない。飽くまで「思想の自由」「言論の自由」を守る政府は、自由な思想、自由な言論を保障するのであり、さうした自由を保障する政府を、暴力で破壞しようとする内外の試みに、政府は抵抗する事が許される。許される――のみならず、積極的に政府は反撃する必要があらう。

……。もし、民主制が、正しい国家型態であるとするならば、それが、自由を意味するからにほかならず、その自由とは、寛容を意味するのである。しかし、民主主義が、反民主主義の不寛容に対して、身を守らなければならないような事態に立ちいたったとしても、民主主義は、依然として、それに対して寛容でありうるだろうか。まさにそう、ありうるのである。反民主主義的な意見であっても、それが平和的に発表される場合においては、禁止されることはない。まさに、このような寛容によって、民主主義は、独裁主義から区別される。われわれが、この区別を維持しているかぎりは、われわれは、独裁主義を拒否し、そして、われわれの民主主義的国家型態を誇る権利がある。民主主義は、自らを放棄してしまったのでは、自らを守ることはできない。しかし、民主主義体制を力をもって排除しようとする企てを、力をもって鎮圧し、また適当な方法で阻止するということは、あらゆる体制の権利であるとともに、民主主義体制の権利でもある。この権利を行使することは、民主主義の原理にも、また寛容の原理にも、矛盾しない。ある意見をひろめること Verbreitung と、革命を準備すること Vorbereitung との間に明確な境界線を引くということは、往々難しいことかもしれない。しかし、この境界線を見つけることができるかどうかによって、民主主義を維持することができるかどうかが、きまるのである。それは、また、この境界線を引くことが、ある危険を孕んでいるということでもあろう。しかし、このような危険を負っているということは、民主主義の本質であるとともに、また、名誉でもあり、もし、民主主義がこの危険を支えきれないとしたら、民主主義は、守られるだけの価値がないのである。

民主主義の中核となっているものは、自由であり、自由は、寛容を意味している。とケルゼンは述べる。さうした寛容な社會である民主制の國家に、學問は相性が良い、と云ふ事になる。自由な討論――對立する複數の意見をぶつけ合ひ、戰はせる事――が、學問では重要であるが、それが民主制の國家では存分に行なへるからだ。言論の場での自由な討論を民主主義の國家の政府は保障する。「思想の自由」「言論の自由」を認める民主制の國家の政府が、一つの正義に基いた特定の學説のみを支持し、他の正義に基いた多くの學説を排除する事は、許されない。

民主主義の中核となっているものは、自由であり、自由は、寛容を意味している。だから、民主制ほど学問に対して好意的な国家型態は、ほかには見当らない。なぜなら、学問は、それが自由である場合、単に対外的に、つまり政治的影響を受けないという意味で自由であるばかりでなく、対内的にも、主論 das Argument と、反論 das Gegenargument との間の論争が、まったく自由に行なわれるという意味で自由である場合においてだけ、盛んになりうるものなのだから。学説を、学問の名において禁圧することはできない、なぜなら、学問の心髄 die Seele は、寛容だからである。

ここでは、學問を例に擧げて、説明がなされてゐるが、ケルゼンが學者であり、「正義とは何か」と云ふ論文が學術論文の形式で發表された事による。醫學や宇宙論に關するやうな學問的な論爭でも、學問に限らない、政治の論爭のやうなものでも、自由になされる事は、大變に有益なのだ。

もつとも、自由になされる議論が有益な結果を生ずると云ふ指摘と、有益な結果を生ずるがゆゑに議論がなされるべきであると云ふ主張とが、ケルゼンの論文では實際、曖昧ではある。

此の點、ケルゼンが釋明してゐて、わたしは、この論文を、「正義とは何か」という問いによって書きはじめた。しかし、いま、それを書き終わるにあたって、わたし自身、この問いに対して解答を与えたつもりはない。と述べてゐる。プラトンやベンサム或はその他の多くの思想家が正義について考へてきた事にケルゼンは觸れ、彼らが決して正義について決定的な答を導き出してゐない事を指摘してゐる。が、ケルゼン自身、さうした過去の思想家から自分が一人、拔きん出て、正義を理解したとは考へてゐない。

飽くまでも相對的な正義しか理解できない人間の一人として、ケルゼンは書いてゐる。

……。実際、わたしは、正義とは何であるか、絶対的正義、この人間の美しい夢が何であるかを、まだ知らないし、また、お伝えすることもできない。わたしは、相対的正義で満足するほかはないし、また、正義がわたしにとってどのようなものであるかを、お伝えできただけである。わたしの天職は、学問であり、それゆえ、学問はわたしの生活の中で最も重要なものであるから、学問を保護し、また、学問によって、真理と誠実を栄えさせることができるものが、正義なのである。それは、「自由」という正義であり、「平和」という正義であり、「民主主義」という正義であり、「寛容」という正義である。

我々もまた、相對的な正義、相對的な價値しか知らないし、理解しようとしない。ケルゼンと同じやうに、我々も、何らかの正義を好み、何らかの正義を信じ、互ひに自分の信ずる正義をぶつけ合つて、議論し、或は戰つて行くしかない。

となれば、價値相對主義の立場から見れば、「趣味を押しつけるな」なる言ひ方をする事は、寧ろ、價値相對主義を否定する言ひ方であり、自由な討論を排除しようとする非民主的な言ひ方である、と云ふ、いささか奇妙に思はれるかも知れない結論を下すしかないのである。

(正漢字)正かなづかひが趣味であるとすれば、それを野嵜が用ゐる事は全くの自由であり、それを受容れる寛容さこそ必要であると野嵜は主張する。一方、新漢字新かなづかいもまた現代の日本人の趣味であるに過ぎないのだから、それが國家の權力によつて一方的に押附けられる事は許されず――しかし、現代の日本人は、「内閣告示」によつて示された「目安」である、と言ふ事によつて、巧みに形式上の民主主義を實現し、「空氣」によつて押附ける日本人一流の「獨裁」的行政手法を「價値相對主義の許容範圍内」に收めてしまふ。

書誌

『正義とは何か』
ケルゼン選集 3
1975年9月10日 第1刷印刷発行
1984年4月20日 第4刷印刷発行
有限会社木鐸社
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