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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
エーヴ・キュリー『戰塵の旅』を讀みつゝある ( その他文学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/11/14(水) 午後 8:11
こんなに買つたよ ( その他文学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ ※畫像の初出
2008/1/22(火) 午前 1:18
公開
2019-03-18

エーヴ・キュリー『戰塵の旅』を讀みつゝある

先日、田村書店の無料箱で拾つたら手持ちの『戰塵の旅』が三册になつたので、諦めて讀み始めた。著者エーヴ・キュリーはポロニウムやX線の發見・研究で知られるキュリー夫人の、科學者にならなかつた娘。第二次世界大戰の間、戰時特派員の資格でアフリカ、近東、ロシア、インド、支那を訪れたが、その旅行記が『戰塵の旅』だ。福田恆存譯。譯されたのはロシア篇のみ。


著者はドイツ軍に蹂躙され、やつと反攻に出た頃に、ロシアの各地を巡つてゐるが、戰爭眞只中、ロシアは最前線にあつた。そこで軍人や工場の勞働者、トルストイの遺産の管理人、或は軍醫と話をする。

當時はソヴィエト體制下で、教育が進み、「實效」が擧り始めた時期だ。ソヴィエトの人々は、既に共産黨の影響下にある。しかしその影響は完全なものである訣でもない。未だ、舊體制の名殘もある。斯うした状況は、實はペレストロイカを經てソビエトが崩潰した時期にも案外變はらずに續いてゐたのだが、となるとこの本は、大變に古いものであるにもかかはらず、大變に本質を衝いた現在でも價値のあるものであると云ふ事になる。共産主義は、日本ではさつぱり流行らなくなつたから、左翼にも右翼にも最早この本が興味の對象となる事は無いが、しかし依然として左翼・右翼と云ふものが「論壇」に存在し、ウェブに存在する(らしい)以上、依然としてイデオロギーと云ふものの理解の爲に役に立つものであると言ふ事が出來る。


共産主義と云ふものを、二十一世紀の日本人は克服したと思つてゐるかも知れないが、共産主義の原理それ自體と言ふよりは、共産主義的な態度が、實は現在の日本人の中にも極めて強く殘存してゐる。と言ふのは、全てを唯物的に――と言ふのは即ち社會的・經濟的或は政治的な側面からのみ判斷する傾向が、依然として日本人には大變強く殘つてゐると云ふ事だが、共産主義と言ふよりそれは政治主義と言つた方が良い事だらう。左翼諸氏のみならず右翼諸氏にこそ、その傾向は強く存在するとすら言ふ事が出來る。

さう云ふ觀點からこの本を眺めた時、エーヴ・キュリーがソヴィエトの知識人と行つた興味深い對話が見出せる。以下、『戰塵の旅』227〜228ページ。

「しかし話が藝術としての文學といふ比較的狹い問題にふれたとき、私は相手と好意的な議論を鬪はしてしまつた。彼が次長をしてゐる部(文學言語部)では十册からなるロシア文學史、並びに西歐、インド、支那、日本の文學史を刊行してゐるが、私たちはたまたまフランスに贈られた版について話しあつた。私は例によつて、いつも自分に《桁はづれ》なふるまひをさせる無遠慮さをもつて訊ねたものである。

「前からお訊きしたいとおもつてましたことがありますの。お國の批評家たちはフランスの傑作を政治的な見地から研究なさつたのですか、それとも非政治的な立場からごらんになつたのですか、それをお伺ひしたいのですが。」

レベデフーポラルスキー氏は、私がこんな問題に疑ひをもつてゐることに呆れてしまつたのだらう、答へて言ふのに、「われわれの考へから申せば、人類の活動のどの分野においても非政治性なるものは存在しませんね。非政治的になることそれ自體がすでに、私たちの否定する一つの政治的態度なのですよ。」

私は一應退却してかう言つた、「それはさうでせうね。でもフランス文學の場合、それらの作品の大部分が何ら政治的目的から書かれなかつたのに、どうしてこれを政治的角度からのみ裁斷することができるのでせうか。私たちの作品を評釋なさるとき、それらの作品が書かれたのとおなじ精神からなさらなければ、しかもそれはまづ大抵の場合政治的偏見をもつてゐないとすれば、あなたがたのフランス文學研究は果して立派な成果をあげることができませうかしら。」

しかし私の言葉の一つ一つは相手にとつて一種の涜神にひとしきものだつた。私はこの話題を放棄せざるをえなかつた。政治學と藝術といふ深遠な課題について、眞摯な議論をするにはとにかく長時間をかけねばなるまい――《政治的》《非政治的》といふ言葉にしても、私たちがそれぞれ意味してゐた内容をはつきり決定してかかることが必要なのだ。

さて現在の日本人にも、レベデフーポラルスキー氏が述べたやうに、「人間の活動には常に政治性が存在する。だから全ての事柄は常に政治的に論じられねばならない」と主張する人は、多數存在するのでないか。それは反共の右翼諸氏の中にすら、極めて多數存在するのでないか。と言ふより、我々日本人は、ありとあらゆる物事を、常に政治的に考へてしまふ國民なのである。だからこそ日本は理想的な共産主義國等と評されるのだと俺は思ふのだが、ところがさう言ふと、俺は共産主義の事を話してゐるのだとしか認識されないのである。多くの日本人は政治的に物事を判斷するから、俺の言つてゐる事にも政治的な理由を詮索してしまふ、そして、共産主義、と云ふ政治に關する言葉を用ゐてゐるから、即座に俺の關心が共産主義のみにあると極附けてしまふ。非政治的な立場と云ふ事をソヴィエトの知識人が理解出來なかつたやうに、「政治的に物事を見てしまふ傾向」の事を俺が非政治的に話してゐると云ふ事を日本人の多くの人が理解する事が出來ない。そこですぐに「説得的でない」とかいちやもんがつけられる訣だが、勿論俺に説得なんてする積りはないし、説得できるとそもそも思つてゐない。だから一々「理解する事が出來ない」と言つてゐるのだが、さう云ふ「言ひ訣」をすれば「へたれ」だの何だのとまたまたいちやもんがつけられる。言ひ訣をしないよりはした方が良いに決つてゐるのだが(自分のした事言つた事の言ひ訣をする必要を感じない人間とは、要は反省する能力を持たない人間の事である)――そもそも政治的な目的を達成する事が人生の目的であると勘違ひしてゐる多くの日本人には、反省もまた所詮は政治的な戰術にすぎないと認識されてゐるし、同時に他人に反省を迫る事が政治的に有效な戰術であると信じられてゐる。だが、さうした政治的な行爲は、大變困つた事であり、反省されるべき事であると云ふのが、實に説得力のない俺の主張なのである。しかし、説得力がどうたらかうたらと言ふのが、またもや我國では政治的な非難の定型句となつてゐる事を我々は自覺すべきであらう。自覺して何うなると言ふものでもないから、具體的な利益があると云ふものでもないから、だから「説得的でない」等と言はれるのだが、自覺しないよりはした方が良いに決つてゐる、俺は政治的な目的を達成する爲に言つてゐるのでないから、理解したい人だけして呉れればいい。


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