公開
2006-01-13

『明暗・崖のうへ』

『明暗・崖のうへ』新潮社
昭和31年2月29日發行

「後記」より

詩劇といふことだが、これがどうして詩劇かと反問されるかたも多からう。もとより未熟であり、未完成の試作にすぎず、およそ詩才にめぐまれぬ私のことではあるが、私は私なりに考へがないではない。それについては、いづれ改めて書く。こゝには、たゞ二つのことを述べておく。詩はたんなる形式ではないにしても、形式のない詩はありえない。無定形詩といふことも、定形詩があつてのうへの話だ。私が試みた方向で、それができるとはいはない。これはたんなる試みにすぎない。

日ごろ私はこんなふうに考へる。たとへば、「私はけふ學校へ行きたくない」といふせりふがある。日本語ではごく普通の表現だが、せりふとしての魅力に乏しい。たしかに一つの主觀的事實はあるが、それを語る心理の躍動感がないのである。聽くものをして、期待を懐かしめない。最後まで耳を傾ける氣になれないのだ。英語なら、いきなり I do not like... ときて、最初から、自分の主張に相手の注意をひきつけてしまふ。同時に、なにがいやなのか、最後まで期待をもたせる。

平生、私たちが語尾をあいまいに喋るのは、日本語にさういふ性格がないからではないか。のみならず、途中もまどろこしいので、弱く喋りがちである。つまり、私たちの會話には自己を主張する力が不足してゐる。これは劇のせりふとして、決定的に不利である。主張の弱いせりふでは、弱い性格しか描けない。

「崖のうへ」「明暗」で、私のこゝろみたことは、せりふに主張の力をもたせることであつた。そのため、私は一語一語の配列を變へること、すなはち日本語のシンタックスを崩すことを試みた。……。

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