かならずしも意識的に努めたわけではなかつたが、終戰後ぼくの關心のおもむくところ、おのづとひとつの主題を形づくつた。それは、ヨーロッパの近代を背景に日本の近代の特殊性を設定したいといふことにほかならなかつた。こゝに蒐録した十一の文章はそのときどきに雜誌に發表したものではなるが、書名のごとき『近代の宿命』といふ主題のもとに統一と聯關とをもつてゐる。本文のうちでもいくたびか觸れてきたことであるが、もしぼくたちの近代に宿命的な悲劇性と複雑性とがあるとすれば、それは近代の確立の未熟といふことそのことのうちにではなく、未熟でありながらそのまゝにヨーロッパ近代の主題を共有してしまつたことのうちに求められよう。みづから剥ぎとることのできる假面ならばたかが知れてゐる。また假面の下に黄色の皮膚をみとめまいとするなら、それはそれで話はかんたんである。が、ぼくたちの苦しさは、ヨーロッパの近代を、もちろんぼくたち自身の生肌の表情とはいへず、それかといつてむげに假面だともいひきれぬところにある。この假面はかぶりとほせもせず、もとよりぬぎすてることもできない。人格者の兄をもつた雙生兒のアイロニーであらうか。
……。