二十年前の私はバーナード・ショウを輕蔑してゐた。が、現在の私はかれを高く評價する。この私自身の變化を私が變化と認めるのは、私が二十年前に讀んだときと全く同じ形の變化せぬ作品を、今もなほ讀むことが出來るからだ。現在の私は過去の私の鑑賞力を批判することが出來る。その當否を確かめることができる。のみならずショウの作品について書かれた數十年前の他人の評論を讀み、その批評の適否やその評者の鑑賞眼を測定することが出來る。作品が殘つてゐるからだ。批評が作品を裁いてゐると見えるのは、その當座だけである。長い年月の間には、作品もまた批評を裁く。その裁きの方がはるかに深刻だ。もしさういふことがなければ、批評はどんなでたらめでもいへることになる。