制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2011-08-19

深瀬基寛『批評の建設のために』

書誌

目次

「詩の道と宗教の道」(『現代の詩心』pp.10-11)

私の本職は英文學ということになつているが、ありていにいえばただ英語の教科書のよみ方を教えているくらいのところで、まとまつた研究などはとうてい及びがたい。ただ本職のかたわらに試みた譯本のなかに、クリストファ・ドーソンの『宗教と近代國家』と『政治の彼方に』と題する本がある。トインビーの『試煉に立つ文明』という本がある。エリオットの『文化とはなにか』という本がある。ウェイドレの『藝術の運命』という本がある。テーマは一樣ではないが、原著者は周知のようにそれぞれ現代一流の歴史家、詩人、思想家ばかりである。そうしてこういう人々が本格的の宗教家もしくは神學者でないのにもかかわらず、彼らの取り扱うさまざまな主題に共通する一點がありとすれば、それは宗教というテーマである。エリオットには『キリスト教的社會の理念』と題する本があり、トインビーの近著は『一歴史家の宗教觀』と題されている。私の飜譚の動機にしたところで、なにも宗教的關心が根本の動機であつたとは思えない。右に擧げた四人の思想家にしたところで、宗教というテーマは彼らが、歴史について考え、文化について考え、詩について考え、藝術について考えている途中で、いわば横槍から押しつけられた課題であつて、こういう思想家たちの思想の面白さは宗教の本陣内の終盤戦にあるのでなくて、外壕がいまだ埋められない前の城外の攻防戦にあるのである。ウイレーの愛用する「思想的風土」という概念を借りていうならば、現代の西洋の思想的風土には新大陸ならぬ宗教という人類の古くさい舊體驗が横槍から飛び出して、岡目八目のわれわれ傍觀者までがはらはらさせられるというありさまである。歴史學におけるトインビー、詩におけるエリオット、またはからずも今日長逝を傳えられた繪畫におけるルオーを例外者として無視するならばともかく、もしもそういう態度にどこか無理があるとするならば、現代の西洋の思想的風土はもうすでに大きな變貌期へさしかかつていると見なければならないのである。私のいう意味は現代に宗教復活の著しい現象が見られるとか、來るべき時代が新中世時代だとか、がらにもなくここでそんな大風呂敷をひろげようというのではない。私のいう意味は純粋に批評の問題として、宗教が民衆のアヘンだとか、宗教が大人のガラガラだとか、宗教が科學時代の遺物だとかいう風の進歩主義的な宗教觀がもう學問的に成立しなくなっているということである。逆説的にも宗教家の側からの證言でなくして、かえつて歴史家、哲學者、詩人、文藝批評家の側からして宗教の意味が再發見されようとする情勢がまさに現代の精神情況の特徴といえるのである。(この情勢の詳細については拙著『批評の建設のために』を参照されたい)。

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