制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「知られざる傑作」2000年01月04日(火)
公開
2001-06-24

「完全な批評家」より

本文より

たとへばわれわれがスピノザのやうに必然といふことを理解すれば、われわれは自由になる、なぜならわれわれはそれを受け入れるからだ。が、法則を定めたり自己の評價を斷定したりする獨斷的な批評家の仕事は完全なものではない。かれらの意見も、時間の經濟といふ點からすればしばしば存在理由があるのだらうが、こと重要な問題となれば批評家は強制してはならぬのだし、また良否の判断を下してもならぬのである。批評家はただ單に批評對象のもつ必然性を解明すれば足りるのであつて、然るべき判斷は讀者が自らくだすのである。

譯註

スピノザにとつて、自由とは恣意的な自由ではなく、自由と必然とは一致する。對立は自由と必然の間にではなく、自由と強制との間に存する。だから、ホラティウスやボアロオの批評は個人的經驗にもとづくもので充分に一般化されてゐず、強制的におしつけられるから、讀者に判斷する自由を與へないが、もし批評家が作品のもつ必然性、すなはち文學の傳統の中において占むべきその位置とかそれが生まれてきた必然性などを解明してくれるならば、讀者はかへつて判斷する自由をもつ。エリオットの言はんとするところはさういふことであらう。


批評家の使命は、通説や個人的な思想を以て讀者を「洗腦」する事ではなく、思想の多樣性を讀者に意識・自覺させる事だ。

エリオットによれば、批評家が決定的な判斷を下すのではなく、讀者が最終的に判斷を下すべきである。批評家は、讀者が何らかの判斷を下すための指針のみを示す。讀者を特定の方向へと誘導してはならない。讀者が自由な判斷を下せるやう、批評家は努める必要がある。

ところで、今言ふ「自由」とは、「恣意」の事ではない。讀者は、「自由な判斷」をする事が許されるが、さうは言つても、根據に基いて結論を下す事が要求される。批評家は根據に基づいて必然的な道理の筋道を示す。讀者は、必然的に引出される結論を受容れる――ただそれは、自由意志による受容なのである。批評家が讀者に、自らの引出した結論を、強制してはならない。


inserted by FC2 system