藝術作品における優れたもの、良いものの概念について、現代人は、つきつめて考へてみるべきだ。屡々、藝術で最も大事なのは個性だと言はれる。
個性と言ふと、過去に存在しなかつた新奇なものを指す、と、多くの人が考へる。しかし、エリオットによれば、個性は過去にも現在にも存在する普遍的なものと合致する。
或詩人の、最も良いだけでなく、最も個性的である部分は、過去の偉大な詩人たちがその不滅性をもつとも旺盛に發揮してゐる部分である
、とT.S.エリオットは言つてゐる。
ところが、もし我々がさういふ偏見に捉へられずに或る詩人の作品を讀むならば、しばしばその一番いい部分だけでなくて、最も個性的なのは、彼の祖先である死んだ詩人達がその不滅性を最も旺盛に發揮してゐる部分であることを發見するに違ひない。
「新しいものは新しいがゆゑに尊い」と云ふ考へ方が、現代の流行の考へ方である。しかし、それは偏見以外の何物でもない。
寧ろ、過去から現在そして未來に一貫して存在する優れた形式が存在する筈である。それを傳統と呼ぶ。
そして、その傳統と、個性とは、エリオットによれば、合致する。傳統は個性を壓殺するものではない。傳統を目の敵にする人も多いが、さう云ふ人に限つて、ただ新奇なだけの薄つぺらなものを信奉してしまふやうに思はれる。さう云ふものが實際のところ優れた藝術作品となり得てゐるのか――私には疑問に感じられる。
エリオットの態度は、「今やオリジナルの作品は作り得ない」とする、例へばGAINAXの態度と似てゐるが、實際には稍違ふ。「個性は存在する」とエリオットは考へてゐる。ただ、新しい藝術作品において、「個性的だ」と看做されるものは、實は常に傳統的なものなのである、とエリオットは述べる。
より正確に言へば、個性的な詩人が良い詩人である時、その詩人は意識して個性を傳統に埋沒させてゐる。
『反近代の思想』の解説で、福田恆存(但し西尾幹二の代筆)は山本健吉を論じて、以下のやうに書いてゐる。
ここに收録した『詩の自覺の歴史』『柿本人麻呂』の二篇は、『古典と現代文學』(一九五六年)の冒頭の二章で、同書の中心主題――詩の個性的表現は、詩人が精神共同體に結合し、奉仕し、個性をいつたん沒却して、自己を超えた神話的・宗教的聯帶意識の要求する樣式の中で生きることによつてはじめて達成されるといふパラドックスは、この二篇の中でもすでに實作に即して十分檢證されてゐる。言ふまでもなくこれは近代の個人主義文學觀の否定であり、唐木(順三)氏と同樣、T・S・エリオットやウェードレーの傳統論・樣式論の影響下にあり、同書はこの主題を萬葉以來の日本の文學傳統の中にさぐり、第三章以下で『伊勢』、『源氏』、『新古今』、能、芭蕉、近松、西鶴など日本文學の樣式交替の上で頂點をなす作家と作品群とに焦點を當てて論じてゐる。