制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-05-29
改訂
2008-12-22

『エリオットの詩學』より

詩劇・シェイクスピア・ダンテ

深瀬基寛が『エリオットの詩學』で次のやうに述べてゐる。

……ところで問題は、吾々が知つてゐて、シェイクスピアが知らなかつたところにあるのである。それは現代の詩人がシェイクスピアより偉いといふことではない。彼がどのやうに偉大であり、吾々がどのやうに卑小であつても、吾々は彼の知らないことを知つてゐる。傳統とは、この距離の自覺に基いて、彼において缺けてゐると見られるものを我において補完せんとする努力によつて、實は彼そのものの價値をも呼出してくるところに發生するものなのである。

古いからと言つて、古典を輕んずる事は許されない。一方、古典を現代の價値觀に基いて判斷する事も當然許されない。同時に、現代人は古典を讀む時、古典の當時の人間になる必要はないのであつて、現代人として古典を扱はなければならない。此處に古典を正當に理解する事の困難の主たる原因がある。

英國人が人喰ひ人種を調査し、彼等と共に生活する事は許される。それでもなほ、英國人は英國人のまゝである。しかし、人喰ひ人種と一緒に人を食つてしまつたら、もはやその英國人は、英國人ではない。エリオットは、古典の話ではなかつたと思ふが、慥かかう云ふ譬喩を用ゐて説明を試みた事がある。

現代人は、自分と古典との距離を測りつゝ、現代人が持つてゐて古典に存在しない何物かを自覺する事によつて、却つて古典にあつて現代人に缺けてゐるものを見出し得る。エリオットは、詩作に於てクラシシズムの立場をとり、劇作の際には古典に據つた作家である。さうしたエリオットが二十世紀の新しい現代詩人として看做された事には注目すべきである。


同時代の文學を讀む時よりも、現代人は古典を讀む時、自覺的にならなければならない。そして、古典ではどんな讀み方をしても大して危險はないが、自覺的に讀む訓練をする事は必要である。同時代の文章を讀む際にも、この種の「自覺」は常に必要だからである。

保守派が共産主義の文献を讀む際に、「トンデモ本」を讀む際に、「南京大虐殺」の本を讀む際に、小林よしのりの戰爭論を讀む際に、この種の「自覺」がないと危險である。讀書の對象に淫してしまつてはならないし、自分の都合に基いて「勝手讀み」をしてしまつても不可ない。であるからして「批判的な讀み方」が必要となるのだが、さうした讀み方が出來てゐない人は大變に多い。古典を讀むのはその種の讀書の訓練となり得る。

一方、讀書において、批判的の側面を極端に重視して、ただ否定だけの爲の讀みを試みる病的な人が、現代と云ふ時代には時として出現する。さうした讀みをもまた我々は警戒しなければならないのだが、讀む對象に對する全肯定か全否定かの態度を最初に獨り決めしてしまふ態度が日本人には大變に多いし、否定の爲の讀書を至極當然の事と心得て些細な缺陷を捉へてひたすら否定しようとする人がある。一時期の反動から揺り戻しがあつて、それで妥當の線に留まれば良いのだが、そこで「薬の效き過ぎ」が起るのは日本人の通弊である。古典のみならず、讀書の對象に傾倒するか、傾倒者に反撥してアンチとなるか――そんな兩極端の態度が、例へばウェブでもしよつちゆう出來する。反省すべき事であらう。

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