私は私の見方と根本的に對立した見地に立つ人々を相手に議論したり、推論したり、論爭しようといふのではない。吾々の時代においては、眞に根本的な問題について論爭するといふことは私には無駄な事に思はれるのだ。論爭は理解の共通地盤のある場合にのみ實行效果があるのである。それには共通の前提を必要とする。恐らくまた勘によつてのみ知られるやうな前提の方が公式化されうる前提よりも更に大切である。討議といへばいつもそれに伴ふあの激越な調子を見てゐると、それは何一つ論議する種がないほどにも大きく開いた距離を示す一つの兆候なのである。私たちは私たちと同時代に生きてゐる人々のうち或る人々との間に恐ろしく深い相違を感ずる。一番近い比例を探してみても、それは一つの時代と他の時代との心性間の差違に當るほどにも遠いのだ。自由主義に蝕まれた吾々のやうな社會においては、凡そ固く信ずる所のあるほどの人間にとつて單だ一つ可能な事は、一つの見方を披瀝すること、さうして、それだけでそれをそのままにして置くことなのだ。