制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)

『文學と人間の言語──日本におけるG・ジョージ・スタイナー──』(慶應義塾三田文学ライブラリー)

スタイナー氏をわざわざ招いておきながら、氏に向つて失禮な事を言ふ日本人ばかりを慶應大學はシンポジウムに出席させてゐる。何を考へてゐたのやら。

西歐・社会主義・文化──「先進文明」の希望をたづねて

加藤周一との對談で、加藤の「演説」を聞かされたスタイナーは、政治の面については、今あなたが示された分析は、最近の政事状況に必ずしも對應しないのではないかと思ふ加藤さんが『自主管理』の兆候をどこに見てをられるのか、わたしには分らないあなたと政治の議論はこれ以上したくないさうは思ひませんね、等々、加藤の主張を悉く否定した。

しかし、加藤は平然と「政治演説」を延々と續け、スタイナーは呆れ返る。スタイナーは言ふ──わたしにも言はせてもらひませう。あなたのお話しに、どんなに感動させられたか。ほとんど、わたしの子供時代に戻らされた思ひだつまりませんね第一、あなたは『五月革命』のことを話題になさつた。でも、このわたしは、あの『五月革命』のとき、現場にゐたのですよ。わたしには、あなたが、何を言ひたいのか、この點、全く分らない

話をするのが嫌になつたスタイナーは、すまないが、その話題は止めて下さい。わたしはその話題を進める用意がない。止めて下さい、濟まないが、と言ふが、加藤は平氣な顏で、さうですか。用意がなければ、社會主義といふ語は時代遲れだといはない方がよくはないですか、等と拔かしてゐる。社會主義者・加藤の、人を見下したやうな發言の數々には呆れる。

ラディカルな保守主義──スタイナー氏と語る

高橋康也との對談。高橋の愛するノンセンス詩人、ルイス・キャロルやエドワード・リアらをスタイナーは、應接間に安樂に坐り込んでクロスワード・パズルに耽つてゐる紳士に見えてしまふ、とばつさり斬る。

……ノンセンスがさまざまな主題の重要な交叉點をなすものだといふ點では私も同意します。しかし、私としては、われわれが生きるこの世界の方が、面白い、ノンセンスのゲームに耽るには現實の方が面白すぎるといふのが僞らざる感想なのです、とスタイナーは斷言する。

これに對して高橋は、キャロルやノンセンスの理解がもう一つ足りないと思はざるを得ません、と應酬。足りないのは高橋の腦味噌だと思ふ。

スタイナー
麻藥その他で意識的に精神を破壞するといふ、アルトー的なケースは、全く私の興味を惹きません。……人間は50萬年に1インチといつた氣の遠くなるやうな遲さをもつて動物から進化してきたのです。その結果としての、またその推進力としての人間の大腦、いかなる機械よりも優れたこの大腦を、芝居がかつた身振りでわざと破壞するのは間違つてゐます。人間の條件を定義づけるのは、正氣であつて、あなたが言つたやうな極限の状況ではない、さう考へる點で私はもちろんプラトン主義者、古典主義者です。
高橋
わざと破壞するといふ言ひ方は、私はしませんよ。
スタイナー
アルトーはさうしたぢやないですか。
高橋
わざとといふより、深い意味でさうせずにはゐられなかつたのです。
スタイナー
せずにはゐられなかつたとはいつたいどういふ意味か、私には分りませんね。

高橋の「言ひ譯」にスタイナーは辟易してゐる。

「言葉遊び」をしたくて、スタイナーは日本に來たのではない筈だ。日本の知識人は「言葉遊び」ばかりしてゐる、と云ふ印象を持つて、スタイナーは歸國したと思はれる。日本人はそれを恥ぢなければならない。

文化の<アイデンティティー>を求めて

山口昌男との對談では、今の時代、「眞理」と云ふ言葉を使ふのは難しい、と弱音を吐く山口に、私は現在、眞理について語ることに、何らの困難もあるとは思へません。……もちろん、眞理といへども、政治的または階級的概念である、といふ理論もあることは承知してをります。アドルノの、否定の辨證法における論理がそれです。私はあれは完全に間違つてゐると思ひますし、ひとたび客觀的眞理といふ考へ方を抛棄してしまへば、學者であり、思索する人間であるといふ、條件そのものを裏切つてしまふことになると思ひます。客觀的眞理を發見したいといふ希望を捨てた瞬間に、もはや知的追求、または學問的探求をしてゐるといふ意味がなくなると思ふ。私はさういふゲームには、ぜつたいに參加したくありません。私はこれでも、眞理を發見しようと努めることの意義は、承知してゐるつもりです。ここが肝腎なんですよ。眞理を發見する、ではなくて、發見しようと努めること。この兩者は、おなじことではありませんからね。とスタイナーは答へ、自己の態度についてきつぱりと宣言してゐる。

山口
われわれの存在の根源に到達しようと、眞理の内なる眞理を發見する、現象學的方法に非常に惹かれてゐます。……私はアフリカにおけるフィールド・リサーチから發展させた、トリックスターの神話の問題を研究してまゐりました。神話における、かうしたタイプの人物は、庶民たち自身によつて「惡魔」──歡迎されざる分子、として定義されてきたのです。ですが、庶民の持つ世界觀を、全體的に構成しようといたしますと、このトリックスターは〈プロヴォカトゥール〉(挑發者)として出現してくるのです……。
スタイナー
なるほど、プロヴォカトゥールですか、なるほど。
山口
この人物は、標準的眞理を、相對的なものにしてしまひます……。
スタイナー
お見事です。私は全面的に贊成ですし、それは非常に興味ある研究だと思ひます。しかし、だからと言つて、それを現象學的と呼ぶ氣にはなれません。それは何も、目新しいことではないですよ。なぜかと申しますとね、歴史上もつとも興味ある挑發者は、ソクラテスだからです。私はわざわざアフリカの部族のところまで行かなくとも、まさにあなたのおつしやることや、ソクラテスが死刑になつた理由を知ることはできます。申すまでもなく、ソクラテス自身、自分が惡魔であり、鬼神であり、喜劇的挑發者であることを知つてゐたわけで、さういふ例が西歐の傳統にちやんとあるのです。しかも私は、別に現象學的と呼ばなくとも、さうした例をいくらもあげることができます。何も私は、あなたと議論してゐるわけではありませんが、さういふことを現象學的と呼んでも、大して意味はありません。私は難しい言葉を使ふのが、ちよつとこはいのです。やさしい言葉もまた、非常にいいものですよ。

日本の知識人は、瑣末な部分にこだはり過ぎる。スタイナーは、本質的な事にのみ興味を抱く。

現代と文學・現代とことば

inserted by FC2 system