制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)

文學と人間の言語──日本におけるG・ジョージ・スタイナー──より

文化の<アイデンティティー>を求めて

スタイナー

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 それからまた、こんにちでは、だれでも、どんな国際会議でも使えるような、社会学的言語、「記号言語学的」言語による、国際的表現方式が存在しています。学者や思想家のなかには、飛行機や空港に住んでいて、もはや学生と接触することもなく、書物のかわりに書評しか読まず、書物を出そうという時には、テープレコーダーに吹きこむような人たちがいます。まったく新しい、「メタ伝達」というか、「偽似伝達」と呼びたいようなものが存在していて、相互の声を聞くことは多くとも、相手の言わんとするところに耳を傾けるということがない。つまり、私は〈アンタンドル〉(間く)と、〈エクテ〉(聴く)の相違を申したいわけで、両者はまったく同じものではありません。しかも、こうしたことは危険なワナでもあります。世界中を旅行して、素晴しいホテルで興味ある人びとに会ったり、何やら重要そうに間こえることを発言するなどということは、非常に愉快で面自いことですからね。ですが、「そうしたところに、どれほど真の理解が存在するだろうか」ということは疑問で、われわれがみな使っているような一言語の表面の下を探ると、実は深く誤解しているところが非常に多いのではないかと思うのです。

 もっとはっきり申しますと、現在では世界語になっている英語などは、そのいい例です。世界中の地域社会や、国際会議などで使われていますが、人によって意味するところは同じではありません。このことは、日本を訪れる者にとっては、非常にこころ惹かれる問題です。皆さんのなかには、立派な英語を話す人が多い。私ども訪問者は、日本語がしゃべれないので恥ずかしいくらいです。どなたもみな英語を勉強していて、しかも秀れた英語を身につけておられるので、私など、お国の言葉に無知なために、非常にきまりの悪い思いをしています。しかし、それにもかかわらず、日本の同業の方がたが話しておられる英語を間きますと──もちろん、それが秀れた英語で、まったく正確なものではあると思いますが──私どもが同じ言葉を使う時の意味と、完全には何じではないということが、よくあるのです。それはちょうど、眼鏡をかけて見ていて、その上にうっすらと、ほこりがかかっているために、眺望が少しばかり違って見えるような感じです。

……

スタイナーは日本で、「言語明瞭意味不明」と云ふ日本人特有のものの言ひ方に惱まされてゐる。日本の知識人が、はつきりと自分の意見を述べず、都合の惡い事には口を噤むのに、スタイナーはがつかりしてゐる。

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