制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成十七年六月八日
「闇黒日記」平成十七年六月二十日
「闇黒日記」平成十七年六月二十八日
公開
2009-01-03

コールリッジ『シェイクスピア論』より

S.T.コールリッジのシェイクスピア論。コールリッジは、ギリシアの演劇以來、墨守されて來た三・一致の法則が絶對の眞實である訣ではない事を指摘し、状況に即して適切に物事を判斷する必要があると主張、さうした物の見方に基いて、過去のシェイクスピア論に反論し、近代的な作品論を展開してゐる。

勿論、今となつてはコールリッジのシェイクスピア論は「古い」。けれども、「新しい」シェイクスピア論を展開してゐる歐米の研究者は皆これを讀んでゐる訣で、この邊の事は常識として、きちんと知識と理解を持ちながら、新しい事や變な事をやつてゐる。やつぱり、何も知らないで新奇な事をやるよりは、知つてゐてやると云ふ方が、「良い」のではないかと思ふ。


如何せん「古い」シェイクスピア論であるがゆゑに、今さら改めてウェブで紹介してシェイクスピア研究に資するところがあるとも思はれない。最早我々は、シェイクスピアに關しては、一種の常識として、コールリッジの研究は通り過ぎてしまつて仕方がない。けれども、さうした研究者的觀點のみならず、一般の常識的な讀者としての觀點から、案外興味深い指摘が隨所に顔を覗かせてゐる。

以下、可なり極端に偏つた形で、と言ふのは、明かに野嵜個人の觀點、野嵜の周邊に關聯した問題意識から、恣意的に拔出す形で、コールリッジの言葉を拔出す事になるが、斯うした觀點で讀む事すら可能である、と言へる事は、コールリッジの發言の仕方が結構現代でも通用するものである事を示唆してゐる。常識的であると云ふ意味だが、この種の堅實で長持ちのするやうな事を言はうとする態度こそが、シェイクスピアに限らない、どんな文藝研究でも、其の研究を偉大なものにするのに必要な事である。


私の講演の綱要を見た方は、私が世の誤れる批評、殊に詩歌に關し、勿論それだけに限る譯ではないが、特に詩歌に關する世の誤れる批評の諸原因に就いて、多少述べる所があることを豫期してをられると思ふ。それには、先づ、正當な判斷の構成を妨げ、また恐らくそれを拒むやうな障害物を指摘することが必要である。それは次の何れかであらう。

  1. 偶發的原因、即ち我々の住む時代の特殊な事情から起るもの。或は、
  2. 永久的原因、即ち我々の人間性に就いての一般的原理に由來するもの。

第一の項目として擧げた偶發的原因は、又次のやうに分類することが出來る。第一は、單にその事件が重大な事件であるといふことのために、或る一つの讀者の世界が出來てしまふ現時代の或る出來事。第二は、すぐその場で、一目みて、理解されようとする希望を著しく助長する通俗講演の仕方。第三は、評論、雜誌、新聞、小説等の流行である。

此の最後に舉げた問題、そしてかういつたものを耽讀することに就いては、私は敢て斷言するが、一つの習慣として、そのやうなものを讀み耽けることが流行する所には、やがて精神力の完全な破壞が來る結果となる。さういつたものを讀むことは讀者にとつては、娯樂といふよりは、寧ろ時間の勞費と言はれる程の、純然たる損失である。それは事實に關する信頼すべき何らの消息をも傳へるものではない。又何らの知的進歩をも齎さないのみか、却つて一層高貴な理解力を養成し、鼓舞し、又擴大する爲の直接の妨げとなる忌はしい病的な感受性を以て讀者の心を滿たすものである。

評論は概して有害なものである。何故なれば、評論家は何ら確固たる原理に基くことなくして、とやかくの斷定を下し、評論は常に人身攻撃に充ちてゐるからである。就中、評論は人々に考へることよりは、斷定することを教へるからである。かくて評論は、皮相淺薄に流れる事を奬勵し、且つ思慮なく、無能な連中をして、權威ある吾々といふ包括的な意見を述べることを勸め、人々をして各人銘々の心を働かせ、その結果として、各人銘々の心を開明し、よつて以て銘々の獨創的な意見をまとめ上げるやうなことのないやうにする。古代に於ては、作家は殆ど天使と人間との間に介在する兩者の媒介者として尊敬されたが、後には畏敬すべき、そして恐らくは、靈感を受けた教師と看做された。そして次には、單に人を教へ導く博學多識の有益な友人としての標準にまで引き下されてしまつたのである。然るに現代の作家は、恩恵を與へる人どころか、寧ろ罪人扱ひされてゐる有樣である。彼等は、批評家が勝手に設けて自ら得々としてゐる法廷に、罪人として引き出される。今日若し誰かが新刊書を讀んでゐる所を見たとすれば、その時に問ふ最も普通の質問は、『そこにどんな詰らないことが書いてあるか』といふことである。かくまで作家の評價に相違を來すやうになつたことに對しては、相當の理由はある。といふのは、今日の世の中は、人が若し裁縫師や靴屋として失敗しても、讀んだり正しく綴る(何故なれば、綴字は尚幾分重要性を帶びてゐるから)ことさへ出來れば、作家になれる世の中だからである。

現代の文藝批評の甚だしい罪惡は、それがあまりにも個人的感情にみたされ過ぎてゐるといふことである。若し作家が何かの誤りを犯すならば、その誤りを眞理のために正さうとするのではなく、寧ろ凱歌をあげんがため、即ち評論家は、作家より如何に賢明であり、如何に有能の人物であるかを示す意味に於ての、凱歌を奏でんがために作家の誤りを正さうとするのである。評論家といふものは、概して出來得べくんば詩人や歴史家や傳記作者等々にならうとして、その才能をその何れかに於て試み、而も失敗した結果として、此處に批評家に身を轉じた連中である。從つて彼等はロオマ皇帝ネロと同じやうに、明かに自分の失敗した特殊な領域に於て、自分を凌駕する者を最も憎む。現代は人身攻撃と政治的ゴシップの時代である。このやうな時代には、古代エヂプトに於てさうであつたやうに、蜂はその針の持つ毒液の多寡に從つて尊ばれ、また詩、特に諷刺詩(satire)は、その中に含んでゐる現存する名士の數の多寡に從つて評價される。そして註釋の方が一般に本文より詩的でもあり、又キビキビして幾分優つてゐる。此のやうな批評の樣式は、今の所スコットランドの衒学的法廷の主柱の一つである。それで、詩に就いてのこのやうな人身攻撃に關する問題として思ひ出されるのは、百人あまりの現存する人物の名を含んでゐるといふ理由で廣告され、又ひどく推奬された或る敍事詩を、私は曾て見たことがあるといふことである。

斯くの如き傾向は眞に優れた詩に對し、如何にその品格を傷つけ、如何にその榮譽を毀損するものであるかは、此處に言ふまでもないことであらう。或る賢明な作家が、人間と動物との間よりも、人間と人間との間に、一層大きい相違があると曾て言つたことがあるが、私は人間の中で自分自身が詩歌の美を感じ得ないで、しかも他人を自分自身の標準にまで引き下げようとする人間程低級な人を考へることは出來ない。フッカアが法則に對して雄辯に主張してゐることを、私は詩に就いて言はう。即ち「彼の女の(詩歌の)御座は神の御胸であり、詩歌より受ける彼の女の聲は宇宙の調和である。天地の萬物ものみな凡て彼の女を賞め讚へる。」詩歌は天上の言語であり、そのいみじくも美はしい喜びの中に、吾々は言はば天上の喜びの性質や、その豫想や、或は豫言を掬み取るのである。

このコールリッジのシェイクスピア論は、その後の文芸批評の理論と方法に大きな影響を与えたのださうである。もちろん、我々日本人とは關係がない、海の向うの話である。インターネットも、かう云ふ領域では、彼我の距離を縮めたりして呉れない。ウェブには「ゴシップは惡い事ではない」等と公言する日本人がゐる。


シェイクスピアには幾分粗野な言葉もあるが、然しそれが未だ汚れざる心に惡い效果を與へるものであるとは考へられない。これに反し、或る近代劇には、近代の小説と同樣に、あらゆる道徳心を破壞する或る組織的なものがある。即ち近代の劇や小説は、只管人を欺くことを目的とする人間の眞に僞善的な口調を以て書かれたものであり、動作、或は動作に導く習慣の中に、何らの道徳的性質が含まれてをらず、私が曾て聞いた或る本の表題のやうに『漠然たる感興の雜然とした寄せ集め』に過ぎない。これ等に於て吾々は敬虔の念に對する最下等の刺戟を強ひられ、それは正に假面を被つてゐるにも拘らず、何人たるかがよく知られ、或は又被つてゐる假面によつて、それが何人であるかは知られてゐるが、而も尚假裝してゐるために、無遠慮な振舞が許されてゐる假裝劇に見る無作法な惡漢の樣なものである。一言にして言ふならば、シェイクスピアの下品な點は、知性を刺戟することによつて、野鄙な感情を消散させる空想の單なる戲れに過ぎないものであつて、不快と感ずるのも、只その時限りのものでないか否かは、彼の作品全體に訴へて見るならば、自づから分明する。近代の劇は不興を感じさせないために却つて有害であるが、シェイクスピアに於ては、最も下品な部分でさへ、人間性の堕落に對する警戒としての下品さである。然るに近代劇の下品は直接此の下品の故に却つて面白いとされる場合があまりにも多過ぎるのである。

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