制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
闇黒日記 平成十七年八月十八日
公開
2020-11-29

R.W.エマソン(Ralph Waldo Emerson)

『アメリカの學者 他三篇』

R.W.エマソン『アメリカの學者 他三篇』

西歐文明の中心と周邊とでは、「同じ文明に屬する」と言つても、思想に異る傾向があるやうに思はれる。西歐の「中心」の地域である(さうに決つてゐる)ヨーロッパ――イギリス・フランス――の思想が普遍的・超時代的な傾を帶びるに比べると、同じ「西歐文明」に屬してはゐてもその「周邊」に屬する地域であるアメリカとロシアとでは、或時代にのみ通用する・(言つてみれば)相對的な思想が支配的であるやうに思はれる。

典型的な「周邊的」思想として、マルクス・レーニン主義が擧げられる。「マルクス主義はもともとドイツの思想だ」と反論される可能性があるけれども、ドイツもまた「周邊」に近いのであり、境界的であるけれども、マルクス主義は境界的な思想の中でも特に急進的であり、結果として「周邊的」に屬してゐると考へる。そして、レーニンやスターリンと結合して成立したソ聯的な共産主義は、明白に「周邊的」であつたと言へるだらう。その相對性、或は、時代に依存した思想である事は、ソ聯崩潰で明白だと思はれる。

一方、また一つの「周邊」としてアメリカを想定出來ると考へる。アメリカの獨立革命はフランス革命と連動したものだつた。アメリカの建國の精神は、フランス革命の精神と共通する。そして「周邊」に到つて土俗的な方向に「急進化」してゐる。共産主義と違つてアメリカの自由主義は、早い時期に成立したものであり、キリスト教と結合して、穩健な性質を失つてはゐない。けれども、ロシアの共産主義もまた、キリスト教を敵視しながら、結局は「アンチキリスト」としてキリスト教の傳統の延長上に存在する。ロシアの共産主義も、アメリカの自由主義も、「神を否定し、人間が自ら」か「神の代りに人間が」かの違ひはあつても、結局は「人の手によつて地上に樂園を齎す」事を目的としてゐる思想であり、ともに默示的な性質を持つ――指導者なり國民なりは「選ばれた人間」としての自負を持つ。

エマソンの演説なり講演なりには、その詩的な精神の現はれた行文の美しさとともに、使命感を強く意識した自由主義的な精神が看て取れる。そして、さう云ふ詩精神と使命感との結合は、共産主義の文獻にも表はれてゐる。兩者の背後には、共通する精神的傾向がある。

ロシアの共産主義にしてもアメリカの自由主義にしても、時代的な思想・相對的な思想である。既にマルクシズムの文獻が批判的に讀まれるしかない歴史的文獻でしかないやうに、エマソンの講演もそのまゝ受容れる訣には行かない文獻でしかない。が、ソ聯が崩潰してマルクシズムの文獻が反古同然になつた一方で、エマソンのやうな建國期のアメリカの文獻は現在も歴史的な關心から讀まれる理由がある。現在もアメリカは自由主義の國として存續してゐるからである。「國家が存在する」と云ふ理由で「讀まれる理由がある」とするのは、結局のところ相對的な價値をしか認められない事を意味するし、私にとつてエマソンが詰らなく感じられる理由だ。

けれども、9・11以降の「テロリストに對する戰爭」の觀念の出現、「イラク戰爭」の遂行について、のみならず、かのヴィエトナム戰爭や、大東亞戰爭についてすら、その根柢にある「アメリカ人の發想」を理解する必要があるのであり、それには建國期の文獻を史料として讀んでおく事は必要だらう。エマソンの意圖したやうに、教訓的に讀む必要は、必ずしもないだらうと思ふ。詩的な美しい譬喩の使用と、使命感の發露――これらの事から、例へば、寺田透が「詩の復権は可能か」(『講座哲学大系6』所收)で述べてゐる「個人主義を超えた體制下でしか詩は存在し得ないのではないか」のやうな、事實の側面からの感想を聯想する事も、許されるだらう。

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