制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-06-01
改訂
2010-02-28

J.ジョイスについて

1

福田恆存は「ジョイス」について論じて、ジョイスの作品は「背徳、あるいは反道徳」ではなく「無道徳ないしは非道徳」である、「無道徳なリアリズム」であると言つてゐます。「西歐作家論」

ジョイスは工匠としてスタイルにすべてをかけざるをえなかつた。その必然性は人間的であり、倫理的ではあつても、その結果たる作品は倫理的でないのみか、ヒューマニティを缺き、いかなる新しい人間像もそのうちには見いだされぬ。

夏目漱石は「倫理的にして始めて藝術的なり。眞に藝術的なるものは必ず倫理的なり。」と言つてゐます。私は漱石の主張に贊成です。だからジョイスの作品は少しも藝術的でないのだらうと思ひます。

「若き日の藝術家の肖像」には「理想主義の旗幟」が見られるさうです。


福田恆存は『批評家の手帖』で、次のやうに言つてゐる。二二二

一瞬にして起つたことが、言葉によつて描寫すれば長くなるといふこと、そしてその描寫に時間をかければかけるほど意味ありげに見えてくるといふこと、この言葉の魔術の單純な罠にジョイスは陷つたのである。

2

T.S.エリオットは「批評の限界線」で斯う述べてゐる。(綱淵謙錠譯)

現代批評の多くは、批評が学問と一つになり、学問が批評と一つになる点に発しており、出典による説明という批評が特徴のようであります。わたくしの言わんとすることをはっきりさせるために、本を二冊挙げてみましょう。これらの本は今述べたところからいいますと、むしろ悪影響を及ぼしてきたものであります。それらがつまらない本だというのではありません。それとは反対に、どちらも誰もが知っておくべき本なのであります。一つはジョン・リヴィングストン・ロウズの「上都への道」で――まだそれを読んだことのない詩の研究者には誰にでもわたくしのすすめる本であります。もう一つはジェームズ・ジョイスの「フィネガンズ・ウェーク」で――わたくしが詩の研究者には誰にでも一読をすすめる――少なくともそのうちの若干のページは読むことをすすめる本であります。リヴィングストン・ロウズは立派な学者であり、すぐれた教師であり、敬愛すべき人であって、わたくしにとりましても個人的に感謝の念を抱くべき理由のある人でありました。ジェームズ・ジョイスは天才であり、個人的な友人でありまして、わたくしが「フィネガンズ・ウェーク」をここに挙げたのは、この記念すべき作品と呼びうる範疇に入る本を褒めるためでも貶すためでもないのであります。が、「上都への道」と「フィネガンズ・ウェーク」とのはっきりしたただ一つの共通点は、そのどちらにも「このような本はこれ一冊で沢山だ」といえることであります。

コールリッジは、さまざまな旅行記を渉獵して詩(「老水夫」や「忽必烈汗」)を作つた。「ザナドゥへの道」でローズは、コールリッジが參照してイメヂや章句を借りて來た旅行記を搜索した。エリオットはローズの研究書を我を忘れさせるほど面白い推理作品でありますと評してゐる。

だがこの本を読んだあとで、誰も「老水夫」が一層よくわかったとは思えないでありましょう。とエリオットは言ふ。なぜなら、ローズはコールリッジの創作過程を明かにしたものの、コールリッジの読書の残骸といったような材料がどのようにして偉大な詩に変わったかを明かにしてゐないからだ。しかしこのローズの研究法に多くの研究者が飛び附いた。

さて、ロウズ博士はそのような聖典解釈学の練達の士たちに、われこそは劣らじという熱意を炊きつけましたが、一方「フィネガンズ・ウェーク」はそういった人たちに、文学作品はすべてかくありたしと彼らの願っている見本を与えてくれました。誤解しないで下さい、わたくしはこの本の中にあるあらゆる糸をときほぐし、あらゆる手がかりのあとをたどってみようと努めにかかっている、そういう聖典解釈の徒の努力を嘲笑したり貶めたりしているのではありません。いやしくも「フィネガンズ・ウェーク」が理解されうるとするならば――そしてわれわれはそのような努力なしにはそれが理解可能のものかどうかも判断できないのでありますが――、そういった種類の探索というものが行われなければならないのであります。そしてキャンベル、ロビンソン両氏が(このような本の著者の名をあげるとしますと)敬服すべき仕事をしております。あの化物じみた傑作の著者であるジェームズ・ジョイスに対してわたくしに不平があるとしますと、その大部分が克明な説明がなければ単に美しいたわごとにすぎないような本をよくも書いたものだということであります。(それはジョイスのようにきれいなアイルランド人の声で朗読すると、じつに美しいものです――彼がその中のもっと多くの部分をレコードに吹きこんでおいてくれたら! と、心から思います)おそらくジョイス自身は自分の本がどんなに晦渋なものであるかを知らなかったでありましょう。「フィネガンズ・ウェーク」の占めるべき位置はどこかという最後的評価がどうであろうとも(そしてわたくしはいまどんな評価をもこころみようとしているのではありませんが)、わたくしは詩というものの多くが(というのはそれは一種の巨大な散文詩でありますから)そんなふうに書かれたり、そういう種類の解剖がその詩の享受と理解とに必要であるとは考えません。しかしながらわたくしは「フィネガンズ・フェーク」の出した謎が、こんにち広くゆきわたっている、説明を理解だと思いこむ間違いを助長したのではないかと思うのであります。

ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」は、パロディや言葉遊びの寶庫だが、矢張りその出典や意味を説明する批評を大量に發生させた。

だが、エリオットは、斯うした、用語の意味を明かにし、パロディや引用の出典を明かにする批評や、詩人の經歴を述べる傳記は、詩を詩として理解する爲には決して役に立たないものだ、と喝破した。

サッフォーの頌詩を読むにあたって一番重要なことは、いうならば、自分を二千五百年前の一ギリシャ島民であると想像することではありません。重要なのは、たとえ世紀が違い、言語が違っていても、詩を享受しうる人間なら誰にとっても同一な体験であり、そういう二千五百年という年月をも飛び越えうる火花なのであります。

「火花」のやうに感得される或種の感情――詩を讀む人間は、詩に書かれた表面的な意味を通して、詩人と直接觸れ合ふ。文藝批評はその讀み手と詩人との「直接の接觸」を手助けするものだ。


時代と共に文藝批評も變化してゐるが、社會科學や心理學の知識を應用した批評が出現してゐる。けれどもさうした批評が、或時點からは最早文藝批評の範圍を出てしまつて、文學作品それ自體を享受し理解するのに役立たないものに化してしまふ。さう云ふ批評も、分析・推理として面白いものであるし、必要なものでもあるが、文藝批評とは區別しなければならない。さうした文藝批評ならざる批評の出現を促した要因の一つとしてジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」がある、とエリオットは述べてゐる。

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