制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」平成14年6月26日
「闇黒日記」平成14年8月23日
セブンアンドワイみんなの書店「書肆言葉言葉言葉」
公開
2003-02-15
改訂
2018-02-22

ジョージ・オーウェル『動物農場』

0

「良き市民」は即ち「善き人間」である、と言へるのか、「惡しき市民」であつても「善き人間」となり得るのではないか、いや、人間的には惡人であつても政治的には良き市民であると云ふ事はあり得るではないか――さう、オーウェルは問ひかける。多くの日本人が、例へば「あいつは自民黨支持者だから惡人だ」とか、「あいつは平和主義者だから善人だ」とか、すぐに極めつける。しかし、政治的な信條と、道徳的な善惡とには、直接的な關係はない。本書でオーウェルは、單純に「ソ聯」と云ふ政治體制を批判してゐるだけではない。オーウェルは、政治と道徳との對立と云ふ極めて重大な問題を、本書で讀者に突きつけてゐるのである。單純に「古い本」と言つて馬鹿にしてはいけない。

1

革命の理念は崇高である。しかし、その實行者は所詮、神樣ではない。當り前の話だが、その當り前の事が、不完全な人間には解らない事がある。

崇高な理念の下で實行された革命が、屡々それ以前より悲慘な「合理的な社會」を生み出し、虐げられた者をますます非道い状況に追ひやる事がある。それが革命家には全く解らないし、彼等はさうした事實を認識したがらないものである。だからこそオーウェルは、斯うした寓話を書いて世に問うた。

2

優秀な人物は權威となるべきである――この種の「能力絶對主義」を信奉する人がゐる。共産主義の國では、「生まれながらの階級」は否定された。ところが、共産主義者には、「實力主義」による「階級」の成立は、至極當然の事と考へられた。かうした發想は、現在の日本でも、一部の人の間で極めて支配的である。

「能力絶對主義」は、いつしか「權威となつた人物は優秀だからさうなつたのである」と説明して、指導者の正當性を主張するやうになる。ドグマの出來である。「共産黨の指導者」は常にさうした「合理的な説明」に據つて、その特權を當然の事と主張して來た。

3>

オーウェルが指摘したのは、人間社會における一つの不合理の單純否定が、即座に他の不合理の合理化・正當化へと直結する事であつた。『動物農場』において、オーウェルは平等社會に特權階級が自然に出現する樣を描いてゐる。勿論、『動物農場』は寓話であつて、寓話は所詮寓話であるから、それ自體として必然的な説明とはならないが、我々は斯うした文學における文學的眞理を認めるべきだらう。

『動物農場』で、動物逹は農場主を追出し、全ての動物は平等である、と云ふスローガンを掲げて平等な社會を築く。それは一時、成功したかに見える。にもかかはらず、いつの間にか「我々は優秀だから、諸君の爲に、良いものを食べたり、肉體労働をしなかつたりするのだ」と言つて、豚がほかの動物の支配者となつてしまふ。

オーウェルは、動物の革命を正義と信じて鬪つた馬を、指導者となつた豚が平然と屠殺場送りにする樣子を描いてゐる。動物逹は、恐るべき事態を知らない。平等社會の實現なるスローガン、これが實は、インテリ階級にしか理解されない抽象的で難解な概念である事は、老いて屠殺される馬が全くの無知である樣子を通して表現されてゐる。『動物農場』で、インテリたる豚は、難解なスローガンを用ゐて無知な大衆たる馬やら鶏やらを欺してゐる。

プロレタリアートは抑壓され、ブルジョワや貴族は甘い汁を吸つてゐる。革命は悲慘な被支配階層を救ひ、支配階層を打倒する。實に立派な理想が掲げられてゐる。にもかかはらず、革命が實現すると、今度は無知な大衆と知的なインテリとの間に、新たな階級格差が出現する。オーウェルは、かうした事態が、極めて自然に生ずる事、のみならず、その新しい事態が常に合理的に説明され、正當化される事を示唆してゐる。新たな不平等の合理的な説明と正當化は、それ以前の不合理な不平等よりも厄介である。同じ不平等であつても、新たな不平等は「當り前」であり「合理的」であるから絶對に肯定されるからである。この種の新たな不平等にも――と言ふより、寧ろ、オーウェルは、新たな不平等の非人間的で冷酷な事を糺彈したかつたのである。

不合理な不平等は嫌なものだと多くの人が言ふ。しかし、その同じ人が、合理的な不平等を全肯定する。「合理的な不平等」もまた非人間的で嫌なものだと私は思ふのだが、「平等主義者」の人々はその種の「合理的な不平等」を、殆ど禮讚してしまつてゐる。過去における、個人の能力に基かない身分・階級制度を、「平等主義者」は排斥する。ところが、さう云ふ「平等主義者」は、能力にさへ基いてゐれば、それが不平等であつても構はない――と言ふより、さうやつて新たな不平等を作るのが自らの使命であると心から信じてゐる。

さうした「新たな不平等」の創成を目論む連中が、實は自らの有能を確信し、自身に反對する他者を見下し侮蔑してゐる事――そこまでオーウェルが考へてゐたかは聊か疑問が殘るのだが――それは、昨今ウェブで平等論を唱へる左翼諸氏が、「ブログ」等で「右翼」を平然と侮辱し、自身の「超人」的な有能さを自慢してゐる樣子を見ると、事實なのではないかと私には思はれる。無知で無能なる大衆を救濟するかの如き言葉を吐きながら、結果として自らの立場を強化し、自らを大衆の指導者たらしめ、特權階級に祀り上げんとする、合理的な「平等主義者」の何と多い事か。彼等「平等主義者」が敵對者を「差別主義者」にでつち上げ、侮蔑し、嘲笑する樣――それはウェブで屡々見られる光景である。

革命家諸氏は、或は左翼の諸氏は、敵を打倒すべき事を頻りに唱へる。ところが、敵を倒しても問題は解決しないのだ。重大な問題は、人間が不完全である事にある。彼等はそれを全く認識出來てゐない。彼等は非道く冷酷で傲慢である。その結果として、彼等の實現しようとする社會は、非人間的で冷たい社會になるのみならず、彼等にとつてのみ有利な社會になつてしまふのだが、それは過去の革命以前の社會に比べて決してより良い社會だと言へないのである。

冷酷とか傲慢とか、さう云ふ事は人間が何うしても克服し得ぬ人間の缺陷であるが、さうした缺陷を常に左翼・革命家諸氏は閑却する。彼等はしかし、平等社會における能力の不平等の存在を考へるのだが、彼等の考へる「能力」なるもの、これがそもそも何なのだらうと私は疑ふ。「ブルジョワ的」だとか「封建的」だとか、そんな事を言つて排斥するのが革命家・左翼諸氏の常だが、彼等が排斥しようとしないものが、彼等自身を如何に益するものであるかを考へたい。彼等は、自己を閑却し社会に奉仕しようとしてゐるやうで、寧ろ自分に都合の良いやうに社會を改造したいと心の底で思つてゐるのである。

參考

昔の譯本

国際文化研究所版
国際文化研究所版『動物農場』表紙

アニメーション版について

1954年、イギリスのアニメーション・スタジオ「ハラス&バチュラー」が(CIAの援助によつて、とも傳へられる)アニメーション映畫化。英國初の長篇アニメーションとなつた。原作と異り、腐敗した支配層の豚に抵抗して虐げられた動物による再革命の出現する、わかりやすい結末に改變されてゐる。

リンク

inserted by FC2 system