制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「闇黒日記」2000年01月04日(火)
公開
2010-01-08

『アシジの聖フランチェスコ』

書誌

"St. Francis of Assisi. 1923"の全譯。1946年に刈田元司による部分譯がある(未見)。春秋社版著作集6『久遠の聖者』(昭和五十一年十二月八日初版第一刷発行)は、生地竹郎による新譯(川口登紀子が下譯を擔當)を收録してゐる。

ことば

歴史の代わりに、あるいは歴史のうわさ話である伝承の代わりにジャーナリズムをいれ替えた近代の革新は、少なくともひとつのはっきりした効果をもたらしました。それは、だれもがあらゆる物語の終わりを聞くだけであるべきだ、と保証したのです。

ジャーナリストは彼らの続き物の最終章に(ヒーローとヒロインがちょうど最後の章で抱きあおうとしているとき。というのはたまたま不可解なつむじ曲りのおかげで彼らは第一章でやるのを阻止されたので)たいてい誤読することば「あなたはこの物語をここから始めることができる」を印刷する習慣をもっていまず。しかしこれすら完全な平行現象ではありません。というのはジャーナルというものは物語の要約の一種をまさに与えるのであって、歴史の要約とは大して似ていないようなものは何も与えないからです。新聞はニュースを取扱うだけでなく、あらゆるものをまるでまったく新しいものであるかのように取扱うのです。たとえばトゥト・アンク・アモン(ツタンカーメン)はまったく新しいものでした。

まさに同じ仕方で、わたしたちはバンクス将軍がそげきされたことを読むのです。これは彼が以前に生まれていたことについてわたしたちがもつ最初の通知です。ジャーナリズムが伝記の手持ちのものを使う仕方には特に意義深いものがあります。それは、死を公示するまでは、生(涯)を公示することなど決して考えません。それは個人を取扱うように、制度と理念、思想を取扱います。

第一次世界大戦後わたしたち公衆は、すべての種類の国家が解放されているところだ、ときかされはじめました。これらの国々が隷属させられている、とはかつて一語もきかされたことはありませんでした。わたしたちは植民地の紛争をさばくようよび出されましたが、それまでわたしたちは、争いがあったことすらきくのをまったく許されていなかったのでず。人びとは、セルビアの叙事詩を語ることなど、知ったかぶりのすることだと思ったでしょうし、ユーゴスラヴィアの新しい国際外交政策について、平易ないつも話す現代のことばで語る方を好みます。それで彼らは、チェコスロヴァキアとよんでいるものについて、以前にボヘミアについて一度もはっきりきくことなしに、すっかり興奮しています。

ヨーロッパと同じほどに古い物事が、アメリカの大平原で極く最近打ち込まれた木標よりも近頃のこととみなされるのです。それはとても興奮させるものです。ちょうど、まさに幕のおりる寸前に劇場に入ったばかりの人にとっての、劇の最後の仕草のように。しかしそれは、全体がどうなのかを知ることに正確に導いてはくれません。ピストルの一発とか情熱的な抱擁という事実だけで満足する人びとなら、劇のおとくい客となるそういった暇な仕方もすすめていいかも知れません。だれがキスをしだれを殺しているか、そしてなぜなのかを知りたいだけの知的好奇心に悩まされる人びとには、それでは不満足です。

現代史は特に英国において、ジャーナリズムという同じ不完全さに悩まされています。よくてもせいぜいそれはキリスト教世界(Christendom)の歴史の半分を語るだけです。しかも前半なしの後半のみを。彼らのために理性が学問の復興からはじまる人びと、彼らのために宗教が宗教改革からはじまる人びとは、何事をも決して完全に明らかにすることはできません。というのは、彼らは自分で起源を説明できないとか、そもそも想像すらできない諸制度を使って、はじめなければならないからです。ちょうどわたしたちが将軍そげきをききながら、彼が生まれていたことはまったくきいていなかったように、わたしたちはみな諸修道院の解体についてはたっぷりききましたが、諸修道院の創設についてはほとんど何もききませんでした。今日この種の歴史は、修道院を憎んだ知的な人びとにとってすら、絶望的に不十分なことでしょう。それは、多くの知的な人びとがきわめて健全な精神で敢えて憎悪する諸制度とのつながりにおいて、絶望的不十分です。たとえば、わたしたちのなかの何人かがスペインの宗教裁判とよばれる正体不明の制度についての、現代の学識ある指導的著作家たちによる何かの言及を、たまたま見ていることは可能です。まったくのところそれはほんとうに正体不明の制度です、彼らおよび彼らが読む歴史によれば。正体不明というわけはその起源が正体不明だというところにあります。プロテスタントの歴史は、パントマイムが小鬼の台所にいる悪魔の王さまからはじまるように、単純に手の内の恐るべき物事からはじまります。宗教裁判が、特に終わりごろになると悪魔たちにつきまとわれたような恐るべきものだったことはおそらく事実です。しかしもしわたしたちが、これはひどいものだった、といえば、わたしたちにはなぜそれがひどいものだったか、全然わかりません。

スペインの宗教裁判を理解するためには、わたしたちが夢にも思ってみたことのないふたつのことを発見する必要があったでしょう。それはスペインとは何であったかということと、宗教裁判とは何であったかということです。まえのことはムーア人への十字軍についての大問題全体および、どんな英雄的騎士道によって一ヨーロッパ国家がアフリカ由来の外国支配から自らを解放したか、という問題を提出することになったでしょう。後のことはアルビ派異端へのもうひとつ別の十字軍に関することがら全体および、なぜ人びとがアジア由来のあの虚無主義的幻想を愛しまた憎んだのか、という問題を提出することになったでしょう。

わたしたちが、これらの物事のなかに元来、十字軍の突進とロマンスがあったことを理解しないならば、わたしたちはどのようにしてそれらが、人びとを誤らせるようになりあるいは人びとを悪へと引きずって行くようになったか、を理解できないのです。十字軍士たちは疑いなく彼らの勝利を乱用しました、が乱用するような勝利もありました。そして勝利のあるところ、戦場での勇気と広場での人気があるものです。行き過ぎを奨励し過誤をおおい隠す類の熱狂というものがあります。

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