制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2000-05-31
改訂
2010-11-26

D.H.ロレンス「好色文學と猥褻」より

『チャタレイ夫人の戀人』の譯者・伊藤整は「チャタレイ裁判」で有罪判決を受けた。その後、伊藤譯『チャタレイ夫人の戀人』は削除版として日本では流通した。削除されたのはチャタレイ夫人ことコニーと森番メラーズの交合の場面。

先年、新潮文庫で完譯版『チャタレイ夫人の戀人』が出版され、話題になつた。もつとも、別人の譯で完全版が出てゐたのだが。これらの完譯・無削除版「チャタレイ夫人の戀人」は、當局から一切御咎めなしで出版された。

その理由は「時代が變つたから」なのだが、今の「フリーセックス」時代の到來を、ロレンスが喜んだかどうかはわからない。むしろ、歡迎しなかつたのではないかと思はれる節がある。

ロレンスは「好色文學と猥褻」(『性・文學・檢閲』所收)と云ふ評論を書いてゐて、性の俗化を非難してゐる。

とはいへ、このわたしすら、正眞正銘の好色作品には嚴格な檢閲を望むものである。…… 好色作品とは性を侮辱し、性に卑劣な仕打ちを加へようとする企てにほかならぬ。まさに許すべからざる企てである。この最も低劣な一例、すなはち大抵の都市において不良中間の手によつて隠密裡に賣り捌かれる繪葉書の例をとつてみよう。わたしもそれを見たことがあるが、その醜惡さときたら思はず叫び聲を發せざるをえないほどのひどさであつた。これこそ人間への侮辱、生命的な人間關係への侮辱でなくしてなんであらう! これらの繪葉書は人間の裸像を醜惡化、愚劣化し、性行爲を醜惡化、下品化し、このうへなく低劣卑俗なものと化せしめる。

……

賢明な青年諸君は、ありがたいことにどうやらこの二點において轉換する事を決意してゐるらしい。かれらは自己の若き裸像を、年長者たちの息のつまりさうな好色趣味の狹苦しい地下世界から救ひ出しつつあり、彼らは性關係についてひそひそ話をする事を拒絶する。これは例の沈鬱なる年長者がもちろんお嘆きになる變化であるが、これはまぎれもなく一大改善であり、眞の革命にほかならぬ。

が、性に對して卑劣な仕打ちを加へたいといふ通俗人どもの意思がいかに根強いものであるか、それは驚くべきものがある。……

現代世界に存在するありとあらゆる虚言の最たる大嘘は、純粹性と穢らはしい秘密の嘘である。十九世紀の名殘たる沈鬱なる連中こそ、この嘘の權化にほかならぬ。かれらは社會において、新聞や文學において、その他いたるところで支配をほしいままにしてゐる。その當然の結果として、かれらは一般社會の大群衆を、自分たちの方向にぐんぐん曳きずつてゆく。

といふことはつまり、純粹性と穢らはしい秘密の虚僞に對して刃向かふものとみれば、なにものであらうとも彈壓せねば氣がすまず、逆に、純粹とはいふものの、その纖細な下着の陰で穢らはしい秘密を撫でさすつて倦まぬ好色文學、いはば大眼に見られた好色文學には、不斷の奬勵を惜しまないといふわけだ。沈鬱なる連中は字句の曖昧な好色文學の氾濫を許し、推奬しておきながら、あからさまなことばと見れば、容赦なく彈壓を加へて耻ぢぬのである。

ロレンスは、少女小説のやうな代物よりも、エロ本の方が、まだしも正直で好感の持てるものだ、と言ふ。

幾らお上品な口調で語られてゐても、その内實が腐つてゐれば、その文章は讀むに堪へない。しかし、現代人は文章を讀む時、全うな感覺を失つてゐる。表面的な印象で、エロ本よりも少女小説の方が清潔であるかのやうに思ひ込む。

「それは困つた事だ」――と、ロレンスは言ふのである。

JUNE系の「耽美小説」が沒道徳的である事は、少しでもジュニア小説に興味を持つた事のある人間なら理解出來る筈だ。

とは言へ、現代の日本では、エロ本ですら藝術書の皮を被つて出現する。藝能人のヌード寫眞集がエロに對する興味に基いて提供されてゐるものなのは火を見るよりも明らかなのだが、いづれも藝術扱ひされてゐる。何より藝能人自身がその手の寫眞集を出して恥ぢない。世も末である。

僞善的な假面をかぶつた(ロレンスの所謂)「好色文學」も、僞惡的で露惡趣味的なエロの表現も、ロレンスは許せなかつた。いづれも、ロレンスの目には、死の腐臭が漂ふ汚らはしいものにしか見えなかつた。

ロレンスは、機械化された生を、再び生き生きとしたものに歸す爲の突破口として、セックスを主張した。それは、興味本位のエロとは全く次元の異るものだ。だが、今の時代、ロレンスの思想としてのセックスは、惰性的に「解放」されたセックスの狹間に埋沒してゐる。

ロレンスの豫想を超えて、現代社會は物凄い勢ひで崩潰しつゝあるやうに、私には思はれる。

inserted by FC2 system