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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
「Yahoo!掲示板」(ホーム > 芸術と人文 > 歴史 > 世界史:ヨハネの黙示録)1999年12月10日〜11日
公開
2000-06-25
改訂
2010-11-26

『默示録論』

1929年11月5日頃から30年1月9日以前までの間(井上義夫氏による。ちくま文庫版『黙示録論』解説より孫引)、死の病床で書かれたD.H.ロレンス最晩年の著作。

虐げられた人々の復讐心の發露が默示文學である。コンプレックスの裏返しとして、自らを虐げる敵を呪詛し、權力意識を滿足させる爲の文學が默示文學である。權力意識は、個人の宗教であり愛の宗教であるキリスト教の最大の敵である。

虐げられたユダヤ民族は舊約にダニエル書を插入し、ローマ帝國に虐げられたキリスト教徒は新約にヨハネ默示録を挿入した。これらのキリスト教聖典における默示文學は、現代の虐げられた民衆にも支持されてゐる。ロレンスは、プロテスタント、或はピューリタンの教會で、默示録が支持されてゐる事を指摘する。

さうした默示文學――と言ふよりも、默示文學を支持する權力意識の持主を、ロレンスは忌嫌ふ。そして、さうした意識を信者に持たせるキリスト教自體の問題をロレンスは指摘し、結果、イエス・キリストを糺彈せざるを得ない。だが、さうした權力意識は、既にキリスト教のみならず近代社會全體に定着してゐるのであり、ロレンスの糺彈は結果として近代そのものの糺彈となる。

昭和書房版『默示録』

『アポカリプス―默示録―』
荒川龍彦・塘雅男譯
昭和九年十月二十日發行
昭和書房
アルバトロス版に據る。
リチアド・オルデイングトンの序文「フリイダ・ロレンスへの手紙」、西脇順三郎の「跋」(D・H・ロオレンスの思想上の態度程ウイリアム・ブレイクに似てゐるものは他にない。ロオレンスもブレイクもあまりに善良なクリスチヤンである。惡いクリスチヤンであるか、クリスチヤンでない人であるならば、ロオレンスやブレイクのやうにキリスト教のことなどはそんなに眞面目に氣にしない。)を含む。

福田恆存譯『現代人は愛しうるか/默示録論』

白水社版『現代人は愛しうるか』
昭和16年に譯稿は出來上がつてをり、渡邊一夫の紹介で白水社から出版される豫定だつたが、當時の情勢から刊行されないでゐた。昭和26年になつて「アポカリプス」を「現代人は愛しうるか」と改題して出版。底本はアルバトロス版。正かな。
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筑摩書房版『現代人は愛しうるか』
昭和40年11月。筑摩叢書。白水社版の再刊。誤譯を訂正したもの。正かな。
中公文庫版『現代人は愛しうるか』
昭和57年6月。アルバトロス版を底本とした筑摩版の再刊だが、マラ・カルニンズの考證したケンブリッジ版ロレンス全集と内容の照合を行つてゐる。新かな。
福田恆存飜譯全集版『默示録論』
平成4年12月。中公版を再録。正かな。
ちくま文庫版『黙示録論』
平成16年12月。飜譯全集版を再録。新かな。

*

經驗を積むに從つて、人は世に二つのクリスト教のあることを諒解するであらう。一はイエスに、そして、互に相愛せよ! といふ至上命令に中心を置いてゐる──そして他の一つはパウロでもペテロでもなく、またかのイエス最愛の弟子ヨハネでもなく、じつにアポカリプスに中心を置くものである。たしかに優しさのクリスト教といふものはある。しかし私の知つてゐるかぎりでは、それが自尊、卑屈なる者たちの自尊のクリスト教のために完全に押し退けられてしまつたのだ。

強者の宗教は諦念と愛を教へる。が、弱者の宗教は強きもの、權力あるものを倒せ、而して貧しきものをして榮光あらしめよと教へてゐる。──キリストの説いた愛の宗教は強者の宗教である。しかし、大衆はそれに我慢出來ない。さう云ふ弱者が生出したのが、嫉妬と復讐に基いた默示文學であり、聖書で言へばアポカリプスである。

ロレンスが「アポカリプスは復讐の書である」と書いたのは、單に「ローマ帝國と云ふ権力者に對するキリスト教徒の復讐心」を指摘したものではない。ロレンスは、より一般的に言つてゐて、「強者」のための宗教であるキリスト教から、いはば落ちこぼれる「弱者」の、「強者」に對する復讐──寧ろ嫉妬――表明がアポカリプスである、と指摘してゐるのである。

「汝の敵を愛せ」と言はれても容易に愛せないのが普通の人間であり、ロレンスの言ふ「弱者」である。そんな「弱者」の心理をキリストは理解しなかつた。だから「強者」のキリスト教をキリストは作り上げたのだが、「弱者」はそんなキリスト教に我慢がならず、從順であるかのやうな顏をしてキリスト教の内部に默示文學を潛り込ませた。「弱者」である大衆が「強者」としてのキリストにやつてのけた復讐が聖典へのアポカリプスの插入である。

この默示録的な復讐の精神の發露は、何度となくキリスト教世界の歴史に見られる。ローマ帝國によるキリスト教彈壓がヨハネ默示録を生んだのだが、その後のプロテスタンティズムの勃興もカトリック教會への復讐心に基づいたものであるし、科學精神の興隆もキリスト教の教義への反撥によるものである。人間社會を搾取被搾取の關係で捉へ、支配者の存在を否定し、從來虐げられたものであつたプロレタリアートによる獨裁とユートピアの實現を目指す共産主義もまた、默示的な精神に基づいて生じたものであると言へる。「支配者」に對する復讐を、科學で味附けした共産主義は、現代的と言ふよりも寧ろ默示録的な性質を持つ思想である。


ロレンスは舊約・新約聖書の默示文學一般に、「弱者」の「強者」に對する復讐心・嫉妬心がある事を看て取つてゐる。

キリストは、ユダヤ民族の復讐の宗教であつたユダヤ教を、世界的な慈愛の宗教・キリスト教へと生れ變らせた。だが慈愛の宗教は「強者」の宗教である。「強者」でなければ實踐出來ない宗教である。「弱者」である大衆は、キリストの教へを「實踐出來ない」が故に、自らはキリストから見捨てられたものと思ひ込んだ。

「弱者」の不滿は、キリストに對する不信へと繋がつた。そして、ねぢけた形で、正統の假面をかぶつて「ヨハネの默示録」として新約聖書の最後に現はれた――さう、ロレンスは言ふ。

だが、ロレンスは、キリスト教の慈愛の宗教としての側面を否定するものではない。それはロレンスの『チャタレイ夫人』を見ても判る事である。ロレンスがキリストを糺彈してゐるのは、愛の宗教としてのキリスト教に「隙」があつた事を非難してゐるに過ぎない。

だが、キリストには豫めその「隙」を作らないやうにする事が可能であつたのだらうか。


純粹な個人は存在し得ない。國家は純粹な個人としての心理を持ち得ない。よつて國家は個人の宗教であるキリスト教と無縁である。人間の關係が搾取・被搾取の關係となる事は不可避である。人は全て政治的・非キリスト教的な國家の一員である。民主主義の國家において、弱者としての大衆の復讐心は、權力として機能し、滿たされる。個人としての理想は現實社會では決して實現し得ない。

ロレンスが語つてゐる事は、現在多くの人が常識のやうに語つてゐる事である。しかしロレンスは現代の多くの人間と異る考へを持つてゐる。大衆の復讐心、默示的な精神を、ロレンスは肯定しない。ロレンスは、個人に分割され、個人主義的な「強者」たる事を強要するキリスト教の一側面を否定するが、愛の宗教としての側面を肯定する。そして、愛の宗教を實現する爲に、個人主義を強烈に否定しつゝ、「大いなる全體」への囘歸を主張するのである。

ロレンスは、ムッソリーニをも「殉教者」と呼んでゐるが、別にファシズム萬歳を唱へてゐる訣ではない。

短篇「死んだ男」でも、多くの長篇でも、生命感溢れる自然が描かれてゐる。『默示録論』の最後の部分にも表はれてゐる事だが、ロレンスは「自然」に囘歸すべき事を考へてゐる。火に飛込んで死に、灰の中から生まれ變つて飛立つフェニックスは、四季における太陽を象徴するものである。ロレンスは、太陽を讚へる自然信仰の復活を叫び、生き生きとした生の恢復を主張する。生命感溢れる自然へ囘歸し、自然全體への一致によつて、個の滅却と人間の域を超えた連帶感を實現し、人間の域を越えた愛の實現をロレンスは考へてゐる。


ところで、ロレンスの主張は、既に個人の宗教であるキリスト教を信じ、個人主義を窮めた西歐の近代社會に對しては痛烈な批判となる筈なのであるが、強烈な個人主義を知らない我々日本人には今一つその痛烈さが理解し難いものとなつてゐる。のみならず、個人主義によつて惹起される「弱者」のコンプレックスとその反動としての復讐心、そして復讐によつて齎される權力慾の充足と云ふ事が、我々にはぴんと來なかつたりする。

我々日本人にとつて、ロレンスの主張する自然への囘歸は、それ自體として當り前に感じられる事であり、何故わざわざ主張されねばならないのかが理解し難い。だが、自然に慣れ親しんだ筈の日本人が、結果として、個人主義を窮め、科學文明を究めた西歐の連中と同樣、自然破壞と都市文明の實現を進めてしまつてゐる。

ロレンスの批判が西歐社會に對して痛烈な批判となるのならば、西歐の近代社會における弱點の痛烈な批判となり得る。ところが、同じ弱點を抱へてゐる筈の日本の近代社會に對して、現状では必ずしもロレンスの批判は批判として有效に機能し得ない。だが、それで良いのか、と云ふ疑問が殘る。

近代文明批判が近代社會を實現した社會に對してしか有效に機能しないならば、日本においても近代文明批判を有效に機能させる爲には、日本人をして西歐人竝の近代意識を持たしめるしかない。となると、ロレンスの批判を眞つ向から受ける爲に、日本人はロレンスの批判する個人主義を身に沁みて知らなければならない、と云ふ事になる。


單純な「自然への囘歸」が、再び復讐心を――默示的な精神をそつと我々の心に忍ばせて來る事は、實はあり得る。エコロジストの主張に、我々は嫉妬心・復讐心の翳を看て取る事は出來ないだらうか。ピースボートの連中は、憎むべき敵への復讐を果し、自らの權力慾を滿たして、滿足げな表情を浮かべてゐないと言切れるだらうか。

西歐の連中にすら、既にロレンスの批判が痛烈と感じられないやうな感性が生じてゐる事、その感性が日本人の感性と類似してゐると指摘する事――何れも可能である。が、それで我々は安心して良いのか、と疑問を抱いてはならないか。

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