D.H.ロレンス
略歴
- David Herbert Lawrence。1895年9月11日生。父John Arthur Lawrenceと、母Lydia Beardsallとの間に生れた。J.A.Lawrenceは炭坑の人夫頭であつた。Lydiaは中流階級出身、學校教師をしてゐた。清教徒的で教育熱心な母と、陽氣で酒好きの父との關係は惡かつた。
- Herbertは13歳の時、奬學金を得てNottingham High Schoolに入學した。在學中の成績は良かつた。卒業後は外科醫療品の製造會社に一年間、勤務した。
- Eastwoodの小學校助教師となり、教育資格の檢定試驗を受けて、英・蘭・ウェールズの受驗者全員の中で一位の成績で合格した。
- その後、Nottingham University Collegeに入學した。
- 大學に二年間在學し、卒業後、1908年にCroydonのDavidson Road Schoolの教師となつた。この頃、詩や短篇小説を多數書いてゐる。
- 1911年、The White Peacockを出版した。同年、肺炎の爲、教師を辭めた。
- 1912年、Nottingham大學での恩師Ernest Weekley教授に招待された時、その妻Frieda von Richthofenと出會ひ、戀愛關係に陷つた。Friedaは、三人の子供の母であつたが、1912年、Lawrenceと共に驅落ちした。二人はドイツへ向ひ、Tyrolを越えてイタリアに旅し、北イタリアのGurda湖畔で過し、1913年にFriedaの故郷であるBavariaに至つた。同年夏、イギリスに一旦歸り、冬を再びイタリアのFiascherinoで過した後、1914年7月13日にイギリスのLondonで擧式。
- 第一次大戰中は、敵國ドイツの女性と結婚した爲、嫌疑をかけられた。徴兵は、肺病の爲、免れた。
- 1919年にイギリスを離れ、イタリアのCapriへ行つた。1920年から二年間、シチリアのTaorminaに居住した。1922年、セイロンを經てオーストラリアへ赴き、夏を過すと、秋にはニュージーランドからタヒチ、サンフランシスコを經てメキシコのTaosへ旅し、そこに三箇月留まると、その後はDel Monte農園に移つた。その冬はメキシコで過し、1923年にはニューオーリンズ、ニューヨークを經てイギリスへと歸り、大陸を旅した後、再びメキシコに戻つた。メキシコには1925年まで留まつた。
- 1925年の秋、再びイギリスに戻つた。その冬はイタリアのSpotornoで過し、1928年まではフローレンスに住んだ。1928年の冬は南フランスのリヴィエラにあるBandolホテルで過し、1929年の冬もBandolで過した。
- 病が重篤となり、1930年2月にはヴェニスの療養院に入つたが、3週間後に逃出し、その二日後の1930年3月2日に死んだ。四十四歳。
土居光知『ロレンス』(研究社英米文學評傳叢書87)による。
著作
- 『默示録論』
- 2001-06-25
- 2010-11-26
- 『性・文學・檢閲』
- 2010-11-26
-
- 「好色文學と猥褻」より
- 2000-05-31
- 2003-04-12
參考
- 福田恆存「結婚の永遠性――チャタレイ裁判最終辯論――」を掲載。
- 小山書店。
-
- 汚れなき人間の像
- 伊藤整
- 彼と妻
- 志賀勝
- ロレンスの意味
- 深瀬基寛
- 豫言者の夢
- 阿部知二
- 「アポカリプス」論
- 福田恆存
- ロレンスの手紙
- 永松定
- 好色文學
- 小林秀雄
- 「チャタレイ夫人の戀人」
- 河上徹太郎
- ロレンスと生命主義
- 中野好夫
- D・H・ロレンスの文献
- 西川正身
- あとがき
- 中野好夫
- 東洋経済新報社。
- 竿頭言に當る「手帖」欄で「『河童』裁判」と題して「ガンマ」氏がチャタレイ裁判の最高裁判決を批判してゐる。最高裁判所長官の田中耕太郎氏は、判決文を主任判事から取上げてわざわざ自分で書いたさうだが、熱烈なカトリック信者だからアンチクリストのロレンスが許せなかつたのだらうと指摘。
日本の最高の裁判官にカソリック信者を置くことは共産主義者を置くと同じ位国民にとっては迷惑なことである。
と非難してゐる。
- C・H・ロルフ編『チャタレー夫人の裁判』
- 2010-11-27