公開
1999-10-14

「南京虐殺」寸感

「南京虐殺」肯定派のエリート意識

日本人の弱い精神は目前の虐殺行爲には耐へ得まい──だから「南京虐殺」などあり得ない。しかし「南京虐殺」はあつたと言ふ人間の態度を見ると、かうした確信を捨てたくなる。「南京虐殺」肯定派は、反對派に對して高壓的な態度で臨み、その言論封殺を狙ふ。いかなる卑劣な行爲も、「南京虐殺」がなかつたと云ふ「歴史修正主義」打倒の爲には許されると、彼らは思つてゐる。その狷介さを見ると、かかる連中ならば虐殺は可能ではないかと云ふ氣にさへなつてくる。「南京虐殺」肯定派は正義に傲り、正義の名の下に他者を斷罪してはばからない──そんな事をする資格など、彼等にはないと云ふのにも氣附かないで。そもそも「南京虐殺」があつたと言ふ人間は、僞惡者なのである。自分は惡人だつたが、反省してこんなに立派な人間に生まれ變つた、御前らはまだ悔改めないのか、愚かな奴等め、と言つて威張つてゐるのである。

歴史の檢證

南京で日本軍が惡い事をしたと云ふ證據だけを調べて、何が歴史の檢證だらうか。それは片手落ちの檢證である。日本軍にだつて良い兵隊と惡い兵隊はゐたに決つてゐる。支那軍にだつて良い兵隊と惡い兵隊はゐたに決つてゐる。そればかりではない、日本軍の指揮官にも良い指揮官と惡い指揮官はゐただらうし、それは支那軍でも同じである。日本人が不正をやつたなら支那人も不正をやつただらう。支那人に立派な者がゐたならば、日本人にもゐただらう。ならばそれをすべて調べ盡すがよい。「日本軍が惡い事をした證據」に限定して調査をして、日本軍は惡い事をしたなんて言つても仕方がない。日本軍も支那軍も、どつちもどつち──歴史を調べていけば、さう云ふ結論が出るに決つてゐる。

「南京虐殺」肯定派がさう云ふ調査をしたくないのは、日本軍を惡者に決め付けたいからである。「日本軍の惡事」を相對化する積りか、と「南京虐殺」肯定派は言ふ。さうである。なぜならすべての事物の相對化こそが歴史の目的だからである。何かを探してそれが見つかつた、萬歳! と云ふのは、歴史に對する正しい態度ではない。自分の望むものを見つける爲の道具が歴史なのではない。歴史を調べるとは、事實を事實にまで分解し、相對化し、ただの個物となつた事實を事實として受容れ、一切の價値判斷を行はない事である。否、事實に對する價値判斷を歴史は許さない事を悟るまで、歴史は調べ盡されねばならない。では「南京虐殺」は歴史上の事實と主張する「南京虐殺」肯定派がそこまで徹底して「南京事件」を調査するか──する筈がない。ならば彼等の言ふ「南京虐殺」は「歴史上の事實」ではないのである。

彼等は日本軍が惡い事をしたと云ふ、自分の望んだ結論さへ出れば滿足なのである。だが歴史に滿足はない。ならば「南京虐殺」肯定派の依據するものは歴史ではない。自分の望んだ結論が出るやうに仕組めばそれが出るのは當り前の話である。しかし歴史はそんな甘いものではない。歴史はあらゆる事實を明るみに出す。ならばそこに善惡はない。この世は一切が善とか一切が惡と云ふ事はない。或は、萬物は流轉する──現實の一切のものの價値は相對的だと云ふ事を「南京虐殺」肯定派は理解すべきである。

なぜ、なぜ、なぜ

ただ、かう云ふ事實があつた──では駄目なのである。なぜさう云ふ事實が存在したのか。「なぜ」と問ふ事に意味がある。そして「なぜ」「なぜ」と次々に問うていくのが、歴史に對する正しい、そして唯一の取るべき態度である。日本は支那を侵掠した──日本はなぜ支那を侵掠したのか。日本は南京を攻略した──日本はなぜ南京を攻めねばならなかつたのか。日本兵は南京で不法行爲を働いた──なぜ日本兵は不法行爲を働いたのか。さうした「なぜ」「なぜ」「なぜ」の連續が、事實の連鎖を斷切り、前後關係を失つた個別の事實の姿を浮彫りにする。そしてそのやうな裸の事實を見出す事こそ、歴史の使命である。

なぜ「南京虐殺」と呼ぶのか

なぜ南京周辺で發生した散發的な日本兵の「不法行爲」を全てひつくるめて、總稱して「南京虐殺」と呼ばねばならぬのか。なぜ全ての報告書の數字を單純に足し算せねばならぬのか。なぜ證言者の證言は疑つてはならぬのか。なぜ、支那政府の「科學的檢證」に八百長の臭ひを嗅いではいけないのか。なぜ「南京虐殺」がなかつたと云ふ證言だけは疑はれねばならぬのか。なぜ、なぜ、なぜ……一切の「なぜ」を封殺する「南京虐殺」肯定派。なぜ「南京虐殺」肯定派は、自分に都合の惡い證言や反論を默殺し、反對派を誹謗し、「歴史修正主義」のレッテルを貼るのか。理由はただ一つ──「南京虐殺」肯定派は、歴史を隱れ蓑にしてゐるが、實は歴史を蔑ろにしてゐるのである。「南京虐殺」肯定派は政治的な目的を持つて、「南京虐殺」があつたと言つてゐるのである。「具體的な證據」がない? 馬鹿を言ふな。戰爭は政治的な事件であり、その戰爭の最中に起きた「戰爭犯罪」を斷罪する行爲が、政治的でない譯がなからう。「證據」もへつたくれもない。馬鹿でもわかる道理である。わからないのは、常にかまとと振つて見せる困りものの「南京虐殺」肯定派だけである──即ち肯定派は、己の誤を知りながら、政治的目的の爲に目を瞑つてゐるのである。

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