公開
2001-05-30

感想

1

事實は一つであらうが、事實を認識するのは人間であり、認識の仕方は人それぞれ。歴史家の事實認識は、歴史家の政治的立場に強く制約を受けてゐる。

歴史家が扱つてゐる事實の研究を始めるに先立つて、その歴史家を研究しなければならない。

だから、單純に「歴史は科學」と言つてはゐられない。歴史は、自然科學ではない、人文科學である。そして、人文科學の手法を、自然科學の立場が批判する事は出來ない。

2

「南京虐殺」が「あつた」と主張する論者にしろ、「無かつた」と主張する論者にしろ、多かれ少かれ、誤りをおかしてゐる。兩派は常に、相手の誤りを誇張する事を論爭の主眼としてゐる。「南京虐殺」論爭が果てしのない證據の提出合戰に陷つてゐるのは、それだけ兩派が、事實の權威を信頼してゐる事の證據なのだが、これだけ論爭が不毛である事が明かになつてゐるのに、兩派の論者とも、事實の權威を疑ふ氣配を見せない。

既に私は、「日本軍のやらかした事は、『虐殺」等と云ふ御大層なものではなく、精々『弱い者苛め』の延長である」と云ふ結論を出してゐるのだが、これが事實認識である事を、「あつた派」は理解しようとしない。

3

「無かつた派」も、さう云ふ「あつた派」のペースに卷込まれてゐるから惡いのである。「あつた派」が、事實認識の「認識」の部分を隱蔽すると云ふ誤魔化しをやらかして事實で爭つてゐるのだから、その誤魔化しを徹底して衝けば論爭はお終ひなのである。

そして「あつた派」も、客觀性の假面に本心を隱してゐるから、「無かつた派」を徹底的に叩けないし、その「狡さ」を「無かつた派」に利用される。

敵の矛盾を衝くためには、まづ自分の側の矛盾を無くしてからにするが良いのである。

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