アイリス・チャン二つの嘘
「月曜評論」(平成11年7月25日號)より。
冨澤繁信氏が寄稿した記事の主張を要約・拔粹。
- チャンは南京の人口は60萬人であつたのが、日本軍の虐殺によつて22萬人にまで減少したと言ふ。
- 安全地區の人口は一貫して20萬人であつたことが調査の結果わかつてゐる。すると「南京虐殺」以前に、非安全地區には40萬人が住んでゐたことになる。
- チャンはこの40萬人のうちの38萬人が虐殺されたのだと言ふ。だが、本當に非安全地區に40萬人の支那人が住んでゐたのか。
- 日本軍の進攻を目前にして、南京市長馬超俊は、12月1日、全市民に安全地區に移るやう命じた。
- 南京防衞軍の支那側司令長官唐生智は日本軍入城目前の12月8日に、非戰鬪員は全て安全地區に移るやう命じた。
- 12月8日附け「東京朝日新聞」は市内の住民が雪崩を打つて安全地區に逃込み、混雜を極めてゐると報じてゐる。
- ティンパーリの『戰爭とは何か』にも、南京は避難民の密集する「鮨詰め」の安全地帶と、それ以外の「事實上の無人地帶」とに劃然と區分された、とある。
- ラーベを委員長とする安全委員會も12月17日の日本大使館宛の文書に於て、13日に日本軍が入城した際に一般市民の殆ど全體を集めてゐたと言つてゐる。
- 以上の事は南京に入城した日本軍將兵の證言と合致する。偕行社刊『南京戰史』等を參照の事。南京市街は空つぽであつた。一方安全地區には人がゐたが、立入禁止區域になつてをり、擔當部隊以外の進入は禁止されてゐた。
- 安全地區と非安全地區の境界となる道路上に、支那兵の服が多數見られた。支那の敗殘兵は兵隊服を脱ぎ、平服に着替へて安全地區に逃込んでゐた。このため日本軍は翌年1月初旬までかけて、便衣兵を住民から抽出する作業を行つた。但しその作業は安全地區でのみ行はれ、非安全地區では行はれなかつた。
- 以上、日本軍入城時、非安全地區人口はゼロであつた。安全地區の人口は20萬人であるが、これが當時の南京市の總人口であつた。
- チャンの「南京の人口は60萬人だつた」といふ説を信ずるならば、安全地區には20萬人が入つてゐるのだから、殘る非安全地區には40萬人居住してゐなければならない。この40萬人の住民なるものを、日本軍將兵は目撃してゐない。
この40萬人は透明人間として存在してゐたのである
、と冨澤氏は皮肉る。
- この
透明人間
40萬人の運命やいかに。彼等は全員虐殺されたのである。安全地區の人間は一人も虐殺されず、そのまま生延びて3月末の人口を形成した。3月末の南京市の人口は22萬人、安全地區の人口は約20萬人──從つて非安全地區の透明人間
40萬人はほぼ全員殺されたと考へざるを得ない。
- さて、この40萬人の
透明人間
を虐殺したのは誰か。日本軍ではない事は明かである。日本軍の兵士に透明人間
は見えなかつた。日本軍は無人の非安全地區しか目撃してゐない。そして軍隊としては、無人地帶を警備する必要はないから、日本軍はどんどん南京を引拂ひ他の作戰に轉進して行つた。
- 軍事目的以外で、南京を警備するには、警察官程度の職務を遂行出來ればよい。南京場内の面積は約35平方キロメートル、その中の安全地區の面積は3.86平方キロメートル(ニューヨークのセントラルパークとほぼ同じ)。計算上、安全地區の警備には約100人の警官で足りる。ただ、安全地區には約20萬人の支那人がゐたので、日本軍は當初約1聯隊(約2500人)で警備に當つた。情勢が落着くと、12月下旬からは、安全地區を主體として南京城内全體の警備を約2聯隊が分擔する事とし、他の部隊は南京城から引拂ひ、他に轉進するか、南京郊外を擔當することとなつた。
- チャンの説によると、南京城を警護した2聯隊の兵達の行動は異常なものとなる。安全地區擔當の兵士約2〜3000人は一人の支那人も殺さないのに、非安全地區擔當の兵士約2、3000人は毎日狂つたやうに人を殺し、擔當地區の人間を絶滅し盡してしまふ。或は、安全地區では品行方正な日本兵が、非安全地區に行つた途端凶惡な殺人鬼に變貌してしまふのである。これは普通の人間には有り得ない事である。安全地區の日本兵が殺人鬼でないのなら、非安全地區擔當の日本兵も殺人鬼では有り得ない。
- また縱令虐殺が行はれたとするにしても、非安全地區擔當の日本軍兵士は僅か2〜3000人に過ぎない。この少い人數の個別的な兵士の恣意的な行動の寄集めでは、40萬人虐殺は不可能である。組織的計畫的な軍事行動が必要であるといふ事になるが、そのやうな事が行はれた形跡は無い。
- もし40萬人の虐殺が行はれたのならば、日本軍以外の
魔性の軍團に登場して貰ふ以外にない
、と冨澤氏は再び皮肉る。この魔性の軍團が安全區では一人も殺さず、非安全區では皆殺しをしたのである
。
魔性の軍團が透明人間集團を殺した。そして日本軍隊にその殺人の責任を負はせる。之が南京大虐殺の眞相なのである。人はこの奇矯な説を嗤つて、相手にしないであらう。しかし私(冨澤氏)は谷壽夫將軍が南京大虐殺の犯人として判決を受け、死刑執行された事にこの眞相の實例を見るのである
。
- 谷壽夫中將率ゐる第6師團の擔當地區は、南京城内の南西部(南京での人口稠密地區)で、商店も多かつた。しかし住民は避難してしまひ、人影は全くない。さう云ふ状況の中で第6師團は12月13日、南京に入城する。この際、部隊の一部が城内に殘され、他は城外で野營した。そして無人地區を守つても仕方がないので、第6師團は12月15日から南方へ移動、21日には南京より数十キロメートル離れた蕪湖に終結した。(このため、谷中將は12月22日の全軍行事には出席せず、代理人を送つてゐる)その彼が南京大虐殺の犯人として死刑執行されたのである。東京裁判で谷中將は以上の事實を擧げて抗辯した。だが谷中將の反論は全て無視され、彼は死刑に處せられた。