公開
2007-02-25

「南京大虐殺」と嘘の報道

スペイン内戦における残虐行為については、私は直接にはほとんど見聞していない。共和派にもいくらかあったし、ファシストにはずっと多くあった(それは今も続いている)ことは知っている。しかし当時も今も強く感じることは、残虐行為の存在を信じるのも信じないのも、一にその人の政治的偏向にかかっているということである。みんな証拠を調べもしないで、敵の残虐行為は信じ、味方のそれは信じないのである。最近私は一九一八年から今日に至るまでの残虐行為の一覧表を作ってみたが、どこかしらで残虐行為の起こらなかった年は一つもなく、しかも左翼も右翼も一様にその事実を認めた例はほとんど一つもなかった。そしてさらに不思議なことには、事態は一朝にして逆転しうるのであって、政治的背景が変わったというだけで、昨日のまごうかたなき残虐行為が今日は笑止な捏造となるのである。

「南京大虐殺とは何か?」をはつきりさせない「あつた」派の戰術

「南京大虐殺」なる「歴史的事實」には、誰もが承認する統一的な定義が存在しません。ただ漠然と「南京大虐殺」と言はれてゐるだけです。

「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々の間でさへ、「南京大虐殺」の定義は異ります。事實がはつきりしないので、まともに定義しようがないからです。ところが、彼等はその曖昧さを利用します。

「あつた」と主張する人々は、敢て「南京大虐殺とは何か」を嚴密に定義しません。さうした定義を「しない」事で、彼等は「南京大虐殺」を「あつた」と云ふ事にしてしまはうとする――さうする事で、彼等は「南京大虐殺」の旗の下に結集し、反對派への攻撃(嫌がらせ)を開始するのです。

「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々の「嘘」や「ごまかし」の多さ

さて、何んな話でも嘘が一つでもあれば信用されなくなるものです。實際、左翼や野黨が國だの與黨だのを攻撃する時には、「たつた一つの嘘」を極限まで誇張して「國は・與黨は信用出來ない」と極附けるものです。

ところがその左翼は、「南京大虐殺」に關しては「嘘が幾らあつても信用出來る」と言張つてゐます。「南京大虐殺」が「あつた」と云ふ證據として嘘の寫眞を持出し、その度に見破られる――と云ふのを何度も何度も繰返してゐます。ところが、依然として左翼諸氏は、「南京大虐殺」は「信用できる事實であるぞ」と言張り、反對派の主張を「歴史の歪曲」と極附け、罵倒し續けてゐます。

彼等「南京大虐殺」は「あつた」と曰ふ左翼諸氏は、「虐殺は惡い事だ」と云ふ通念を利用し、「俺は惡い事をしてゐない」と言ふ事は「反省が足らない」「傲慢な事である」と「人が屡々思ふ」事を利用してゐます。彼等は、過去の日本軍を罵倒し、「傳統主義者」をやつつけて快を貪る爲に――彼等は「快を貪つてゐる」と云ふ自覺がありませんが、如何にも嬉しさうな筆致を見れば判ります――「南京大虐殺」を「あつたと云ふ事にする」のです。


實際、「ごまかし」拔きで眞摯に「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人はこの世に存在しません。「あつた」と信ずる人は、反對意見に對し、最初は「困つたなー」とにこにこしながら應對するものです。しかし、反對派がさらに「あつた」派の主張を否定すると、彼等は「憐れみの眼差し」を伴つた見下したやうな嘲笑を始めます。「あつた」派は一種の「矜持」を持つてゐるのです。この「矜持」は張りぼてに過ぎません。彼等は反對派が依然として默らないと知ると、感情を爆發させ、反對派の發言を妨碍し封殺する爲に奔走し始めます。

私の知る限り、「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人々が、眞面目に「なかつた」派の主張に應對した事はありません。何時如何なる場合にも、彼等「あつた」派は、「なかつた」派を見下したやうな應對をします。その種の差別的な態度は、左翼の連中の信條には反する筈なのですが、實は左翼は差別が大好きなので、「歴史的事實」のやうな一見客觀的な根據さへ提示出來れば、左翼は直ぐに人を見下すのです。「南京大虐殺」は、左翼が反對派を見下す目的ででつち上げられた嘘だと言つて良いでせう。

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