「南京大虐殺」:メモ
「あつた派」
- 「南京大虐殺は事實である」と言ひ、「南京大虐殺」が歴史的な事實であると強調する。
- 田中正明氏の著書に「資料の改竄があつた」「信用を失つた」と宣傳する一方、「あつた派」の「捏造寫眞」の類には目を瞑る。笠原十九司氏の『南京事件』(岩波新書)は、「捏造寫眞」が掲載されてゐた爲、囘收されたのだが、「あつた派」はその事實に觸れない。
- 田中正明氏の著書の「誤」を、「あつた派」は宣傳し過ぎる。「あつた派」は、なぜ「價値のない資料」を宣傳しなければならないのか。爲にする議論である、と言つてよいだらう。
- 「南京大虐殺があつたとすると、論理的に説明のつかない事實」のある事を指摘されても、「南京大虐殺は事實である」と云ふ理由で「指摘された事實は誤である」と云ふ結論を導きだして平氣な論者がゐる。
- 資料の解釋をする際、「これは事實である」と言つて、論理的に無理の多い説明をする傾向がある。
- 「あつた」と云ふ主張をする論者は皆、仲間だと思つて、自説とは整合性のない説をも認める。
- 中華人民共和国政府の「公式見解」である「30萬人説」、東京裁判の判決にある「20萬人説」、國民黨主導の南京裁判の判決にある「30萬人説」を、それらの説の背後にある意圖を無視して、「事實である證據」として持出し、支持する。論理的にあり得ない話である、と云ふ事を氣にしない。或は、辻褄合はせの爲に、事實をややこしく解釋する。
- なぜか、中國人間の風聞・噂を、「南京大虐殺」が「事實」である事の證據だ、と云ふ事にしてしまふ。
- 戰中の日本の報道は絶對に信用しないが、日本と敵對してゐた國の報道は鵜呑みにする。
- 「南京大虐殺と云ふ事實」は結構だが、「南京大虐殺」は議論の出發點なのか、結論なのか。「南京大虐殺」に關する論爭で、「あつた派」がその邊をごまかす事は、極めて多い。
- 「無かつた派」に對して、「南京大虐殺は無かつたと言ふ連中は氣狂ひだ」と云ふ攻撃の仕方をしたり、「まぼろし派」「歴史修正主義者」といつたレッテル貼り(決め附け)をしたりする。
- 「南京大虐殺」に關する論爭をすると、「なかつた派」を嘲笑し、それに對して「なかつた派」が反論をすると、「また馬鹿な事を言つてゐる」と決めつける。
- 彼等が「客觀的」と稱する主張の背後には、イデオロギー的な價値判斷が隱れてゐる。詰り、イデオロギー的な狙ひがあつて、彼らは「南京大虐殺は事實だ」と言張つてゐるのである。
「なかつた派」
- 「あつた派」が言ふほど、主觀的に資料を選別してゐない。
- どちらかと言ふと、「なかつた」と云ふ斷言よりも「あつたのだらうか」と云ふ疑念を呈するにとどまる事の方が多い。
- 資料を提示して、第三者には自主的な判斷をするやうに奬める事が多い。
- 「あつた派」の提示した「事實」が、論理的に異常である事を屡々指摘する。
- 無理な説明をしないで、論理的にすつきりとした説明の出來るやうな資料の解釋をする。
一言
「あつた派」の殆どは、自稱「客觀的な證據」をならべたてる。しかし、その證據の殆どは、「あつた派」の主觀或はイデオロギーに基いて選別され、解釋されたものに過ぎない。もちろん、「犯人」の動機は、彼らのイデオロギーによつて説明される。
「なかつた派」の多くは、「南京大虐殺」の「犯人」に、動機も、證據もない、と云ふ事を、冷静に主張する。「あつた派」は、さう云ふ「なかつた派」を「煽つて」腹を立てさせる戰術を屡々とり、「なかつた派」が怒り出すと、実に嬉しさうに「なかつた派は感情的だ」と言ふ。
「あつた派」のやり方は政治鬪爭的であり、それだけで疑ふ理由となる。