制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2008-12-31

葦津珍彦の略歴

略歴

 葦津は明治42(1909)年、福岡・筥崎宮(はこざきぐう)の社家の家系に生まれた。父耕次郎は熱烈な信仰家であったが、神職として一生を送らずに事業家となり、満州軍閥の張作霖(ちょうさくりん)を説いて鉱山業を興し、あるいは工務店経営者となり、全国数百カ所の社寺を建設した。一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対、日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走した。

 珍彦はその長男で、はじめは左翼的青年であったが、父の姿を見て回心し、戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判した。

 敗戦を機に、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たした。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれる。昭和36年末の「思想の科学」事件の渦中の人でもある。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超える。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去った。

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